身形神社。在原業平が身の守りに携えていた宗像神社の分霊を奉斎
身形神社の概要
身形神社は、さいたま市桜区神田にある神社です。身形神社は、在原業平が仁寿元年(851)当所に参籠した際、身の守りに携えていた宗像神社の分霊を当地に鎮め祀り、身形神社と称したことに始まるといいます。また、在原業平が所持していた筆を挿したところ、葭竹が伸びて「西湖の葭」の群落となったといいます。

社号 | 身形神社 |
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祭神 | 多紀理比賣命、狭依比賣命(市杵島姫命)、多岐都比賣命 |
相殿 | - |
境内社 | - |
住所 | さいたま市桜区神田56 |
祭日 | - |
備考 | - |
身形神社の由緒
身形神社は、在原業平が仁寿元年(851)当所に参籠した際、身の守りに携えていた宗像神社の分霊を当地に鎮め祀り、身形神社と称したことに始まるといいます。また、在原業平が所持していた筆を挿したところ、葭竹が伸びて「西湖の葭」の群落となったといいます。
新編武蔵風土記稿による身形神社の由緒
(神田村永福寺項内)辨天社。
八臂の辨天にて弘法大師の作と云、社を續りて小池あり、池中に葭竹といへるもの生茂れり、この葭始めて生るときは、尋常の葭とことならず、冬に及び枝葉は枯れて幹はかれず、春に至り又其舊幹へ枝葉を生ず、其大なるは葭竹と云ものの如し、傳へ云往昔在原業平東國下向の砌、當社に参籠して歌道の繁栄を祈り、自ら持る所の筆を池中にさしたりしに、其筆根をさし枝葉を生じてより、今に其種類のこりて繁茂せりと云、又の傳へに大同念中弘法大師當國行脚のとき、ここに来りて佛法興隆の為加持せられしにより、かくの如しと共に信じがたき説なれど、姑く傳のままを記せり、これ恐らくは葭の異品にして、ままあるものなるを種々に牽強し、かく希有の説を傳ふるにあらずや。(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による身形神社の由緒
神田の地名は、古くはこの地が伊勢神宮の神債領であったことに由来し、神領にかかわるとされる月讀社が村の鎮守であった。当社は、その末社のような形で祀られてきた社で、天照大神と須佐之男命が誓約を行った際に、須佐之男命の剣から生まれた三柱の女神(いわゆる宗像三神)が祭神である。当社の祭神が宗像三神であるのは伊勢神宮に祀られている天照大神とのかかわりによるものと思われる。
旧社家の神山正男家所蔵の「身形神社略縁起」及び「古社取調書」によれば、当社は在原業平が身の守りに筑前国(現福岡県)宗像神社の分霊を乞い、東国に下った仁寿元年(八五一)八月、行き暮れて当所に宿を取り、暫時当社に参籠した際、その分霊をこの地に鎮め祀り、身形神社と称したことに始まるという。更に業平は、宝祚長久歌道の興隆を祈って持っていた筆を地に挿したところ、その筆軸が葭竹に変化して今日見られるような「西湖の葭」の群落になったと同書に伝えられる。また、境内には「さしおくもかたみとなれや末の世に源氏栄えはよし竹となれ」という業平の詠歌を刻んだ歌碑も建てられている。
江戸時代、当社は弁天社と呼ばれ、真言宗の永福寺の境内に祀られていた。当社を通称「葭竹弁天」というのはそのためで、本殿の内陣には、祭神の三女神像と共に業平の守り本尊と伝えられる像高一四・三センチメートルの白木一刀彫の神像が奉安されている。(「埼玉の神社」より)
身形神社所蔵の文化財
- 雨乞い絵馬(市指定有形文化財)
- セイコノヨシ自生地(市指定天然記念物)
身形神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)