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西堀氷川神社。さいたま市桜区西堀の神社

西堀氷川神社の概要

西堀氷川神社は、さいたま市桜区西堀にある神社です。西堀氷川神社は、西堀村の鎮守として応永年間(1394~1428)に武蔵一宮の氷川神社を勧請して創建したといいます。当社は田島の氷川社に対して上の宮と称されていたといい、慶安元年(1648)徳川家光より社領10石の御朱印状を拝領したといいます。明治41年に町谷(町屋)村の神明社・御嶽社・稲荷社の三社を合祀したといいます。

西堀氷川神社
西堀氷川神社の概要
社号 氷川神社
祭神 須佐男尊
相殿 櫛稲田姫命
境内社 天神社・御祖霊社・宮比社・榛名社・八千矛社・三峰社
住所 さいたま市桜区西堀8-26-1
祭日 -
備考 -



西堀氷川神社の由緒

西堀氷川神社は、西堀村の鎮守として応永年間(1394~1428)に武蔵一宮の氷川神社を勧請して創建したといいます。当社は田島の氷川社に対して上の宮と称されていたといい、慶安元年(1648)徳川家光より社領10石の御朱印状を拝領したといいます。明治41年に町谷(町屋)村の神明社・御嶽社・稲荷社の三社を合祀したといいます。

境内掲示による西堀氷川神社の由緒

西堀の開発は鎌倉時代と伝えられ、畠山重忠がこの地を領した時、真鳥山城を築き、家臣の真鳥日向守を代官としてこの居館に居住させたという。
社蔵の「武蔵国一宮氷川大明神社縁起」(元禄十二年)によれば、当社は西堀の鎮守として応永年間(一三九四~一四二八)に武蔵一宮の氷川神社を勧請した社とされる。また、『風土記稿』は当社について「氷川社一宮の男神女神を移し祀れり、本地は観音なり、当社を上の宮といひ、隣村田島村の氷川社を下の宮と称す、慶安元年(一六四八)社領十石の御朱印を附す」と記し、江戸時代の状況を知ることができる。なお、現在の本殿は、江戸中期から後期に建造された二間社流造り杮葺きの優美な建築で、市指定文化財となっている。
明治十三年の古図には当社と調神社(現浦和区)の二社が軍事道路とともにスケッチで残っている。
氏子地域は、明治四十一年から西側に隣接する町谷(町屋)村から神明社・御嶽社・稲荷社の三社を合祀し、現在の氏子地域として運営されている。境内には天神社・御祖霊社・宮比社・榛名社・八千矛社・三峰社・七福神を祀った宝船・山車祭器・神輿庫等がある。
他にお伊勢さま参拝記念の碑や日露戦争凱旋記念額並び記念樹も現在も残っている。(境内掲示より)

新編武蔵風土記稿による西堀氷川神社の由緒

(西堀村)氷川社
一宮の男神女神を移し祀れり、本地は観音なり當社を上の宮といひ、隣村田島村の氷川社を下の宮と稱す、慶安元年社領十石の御朱印を附す。
末社。荒脛社、神明社、天神社、疱瘡神社、稲荷社二宇(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による西堀氷川神社の由緒

西堀の開発は鎌倉時代と伝えられ、畠山重忠がこの地を領した時、真鳥山城を築き、家臣の真鳥日向守を代官としてこの居館に居住させたという。
社蔵の「武蔵国一宮氷川大明神社縁起」(元禄十二年)によれば、当社は西堀の鎮守として応永年間(一三九四~一四二八)に武蔵一宮の氷川神社を勧請した社とされる。また、『風土記稿』は当社について「氷川社一宮の男神女神を移し祀れり、本地は観音なり、当社を上の宮といひ、隣村田島村の氷川社を下の官と称す、慶安元年(一六四八)社領十石の御朱印を附す」と記し、江戸時代の状況を知ることができる。なお、現在の本殿は、江戸中期から後期に建造された二間社流造り杮葺きの優美な建築で、市指定文化財となっている。
また、江戸時代には、真言宗の宝性寺が当社の別当であったが、神仏分離に際して廃寺となり、社僧は還俗して眞取姓を名乗った。以後代々神職として奉仕し、現在、眞取正典が宮司を務めている。宝性寺の建物は、昭和四十五年ごろまで社殿の東側にあり、神職の住宅として利用されていたが、幼稚園の建設に伴って取り壊され、今は拝殿の竜の彫刻が唯一残されているだけである。また、『風土記稿』宝性寺の条にも見える宝暦十四年(一七六四)銘の銅鐘が現在当社南方の真言宗醫王寺にあり、市指定文化財となっている。(「埼玉の神社」より)


西堀氷川神社所蔵の文化財

  • 西堀氷川神社本殿一棟(さいたま市指定有形文化財)
  • 関流算額(さいたま市指定有形文化財)

西堀氷川神社本殿一棟

拝殿の奥、覆屋内に収められた本殿は、二間社流造で、屋根はこけら葺きとなっています。本殿の本体部分である身舎は、間口二・四二メートル、奥行一・七〇メートル、正面の柱と柱の空間が二つあるので「二間社」と表現します。これに奥行一・五六メートルの向拝がつきます。向拝の上にかかる屋根は、身舎の屋根をそのまま前方に葺きおろして庇となったもので、流れるような屋根の形のため「流造」と称します。柱上は三斗組で中備は蟇股、妻は虹梁・大瓶束、柱間は正面が二間とも板唐戸、軒は二重繁棰となるなど、本格的な造営を受けており、意匠も優れています。
建立は、江戸時代の中期から後期頃と考えられています。二間社流の数少ない例で、こけら葺きも含めて保存価値がきわめて高い建築といえます。(宗教法人氷川神社・さいたま市教育委員会掲示より)

関流算額

算額は、和算という日本独自の数学を学んだ人々が、難問を解けたことに感謝するとともに、和算の普及を図ることを目的に奉納したものです。
この算額は、嘉永五年(一八五二)に元宿村(現桜区南元宿)の中邨光好兄弟が、曾祖父、光忠が文化九年(一八一二)に掲げた算額が大破したため、父が解いた一題を加え、計四題として、再奉納したものです。
江戸時代の和算家、関孝和の流派である関流の算額で、大きさは、縦六十一センチメートル、横九十四センチメートル、上に幾何図形が描かれ、下に問答が文章で記されています。文字はほとんど剥落していますが、ニカワによる盛り上がりにより全体の判読は可能で、昭和四十一年に専門家による復元が行われました。(宗教法人氷川神社・さいたま市教育委員会掲示より)

西堀氷川神社の周辺図


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参考資料
  • 新編武蔵風土記稿
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)