足立神社。高塙(高鼻)郷の鎮守社で高塙明神社
足立神社の概要
足立神社は、さいたま市浦和区上木崎にある神社です。足立神社の創建年代等は不詳ながら、高塙(高鼻)郷の鎮守社で高塙明神社と号し、上木崎・下木崎・北袋・瀬ヶ崎・針ヶ谷五村の鎮守社だったといいます。明治期には村社に列格、市川治右衛門氏が当社を延喜式神名帳所載の足立神社だと比定して、社号を足立神社と改称したといいます。
社号 | 足立神社 |
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祭神 | 猿田彦命 |
相殿 | 天鈿女命、天照皇大神、倉稲魂命、別雷命、菅原道真公、木花咲姫命、応神天皇、大山祇命、事代主尊、清和天皇 |
境内社 | 八雲・稲荷・浅間社、神明・風王社 |
住所 | さいたま市浦和区上木崎5-11-1 |
祭日 | - |
備考 | 旧村社、延喜式内社論社 |
足立神社の由緒
足立神社の創建年代等は不詳ながら、高塙(高鼻)郷の鎮守社で高塙明神社と号し、上木崎・下木崎・北袋・瀬ヶ崎・針ヶ谷五村の鎮守社だったといいます。明治期には村社に列格、市川治右衛門氏が当社を延喜式神名帳所載の足立神社だと比定して、社号を足立神社と改称したといいます。
境内掲示による足立神社の由緒
当社は開化天皇御代創立延喜式内足立神社と口碑に伝称されている。又、古来高塙明神社とも云い古く当地方を高塙郷と称したことに因るとも云われる。近世、上木崎・下木崎・北袋・瀬ヶ崎・針ヶ谷五村の鎮守の神として崇拝される。(境内掲示より)
新編武蔵風土記稿による足立神社の由緒
(上木崎村)高塙明神社
祭神猿田彦命、當村及び下木崎・北袋・瀬ヶ崎・針ヶ谷五村の鎮守なり、境内に観音堂あり、これは村民持。
末社。稲荷社、神明社。
神主村田近江、吉田家配下なり。(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による足立神社の由緒
当社の社名は、江戸期まで高塙明神社であった。この「高塙」というのは、中世、浦和市から大宮市にまたがる「高塙郷」であると考えられ、この郷の鎮守として祀られたのが当社であると思われる。この時期、当社に関与した氏族は、当郷を開発した在郷地頭の高塙(高鼻)氏であろう。高塙氏の初見史料は、『吾妻鏡』文治五年(一一八九)七月十九日条の「高鼻和太郎」であり、ほかに浦和市本太鎮座の氷川神社に伝存する宮殿の宝徳三年(一四五一)九月二十四日の墨書銘「大檀那高埇左衛門盛影」「地頭たかはな殿」がある。
『風土記稿』上木崎の項には「高塙明神社 祭神猿田彦命、當村及び下木崎・北袋・瀬ヶ崎・針ヶ谷五村の鎮守なり、境内に観音堂あり」とある。これを見ると、祭祀圏は中世の高塙郷から縮小したものの、江戸期も当郷の有力社として存在していたことがうかがえる。
祀職は、大宮市高鼻鎮座の氷川神社社家『東角井家日記』文化七年(一八一〇)十月の記録によると、「木崎村高鼻村大明神禰宜村田近江殿」とある。村田近江は、吉田家配下の氷川神社社家触れ下であった。
明治期になると、上木崎村の副戸長を努めた市川治右衛門は、当社を延喜式内社の足立神社であると主張し、社名変更を行った。(「埼玉の神社」より)
足立神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「さいたま市史料叢書」(さいたま市)
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