猫の足あとによる埼玉県寺社案内

岩槻城跡。さいたま市岩槻区太田にある旧跡・名所

岩槻城跡の概要

岩槻城跡は、さいたま市岩槻区太田にある名所旧跡です。岩槻城跡は、太田道灌が九ヶ城を築城したとされる城郭の一つで、長禄元年(1457)に築城、江戸時代には譜代大名の居城となっていた岩槻城の跡(一部)です。戦国時代末期に大幅に拡張され、江戸期には郭外は周囲2里(約8㎞)にも及び、郭内には町屋・武家屋敷も含まれていたといいます。明治維新後に廃城となり、市街化開発に伴い全貌は失われてしまったものの、新曲輪・鍛冶曲輪周辺が岩槻公園として整備され、土塁や空堀などが残されています。かつての本丸は岩槻本丸公民館付近、土塁の一部は岩槻愛宕神社に残っています。

岩槻城跡
岩槻城跡の概要
旧跡・名所名 岩槻城跡
みどころ 旧跡
入場時間 -
入場料 無料
住所 さいたま市岩槻区太田3-4岩槻城址公園
備考 -




岩槻城跡の縁起

岩槻城跡は、太田道灌が九ヶ城を築城したとされる城郭の一つで、長禄元年(1457)に築城、江戸時代には譜代大名の居城となっていた岩槻城の跡(一部)です。戦国時代末期に大幅に拡張され、江戸期には郭外は周囲2里(約8㎞)にも及び、郭内には町屋・武家屋敷も含まれていたといいます。明治維新後に廃城となり、市街化開発に伴い全貌は失われてしまったものの、新曲輪・鍛冶曲輪周辺が岩槻公園として整備され、土塁や空堀などが残されています。かつての本丸は岩槻本丸公民館付近、土塁の一部は岩槻愛宕神社に残っています。

さいたま市掲示による岩槻城跡について

埼玉県指定史跡岩槻城跡
岩槻城は室町時代の末(15世紀中頃)に築かれたといわれています。江戸時代には江戸北方の要として重要視され、有力譜代大名の居城となりました。
戦国時代には何回も大改修が行われ、戦国時代の末期には大幅に拡張されました。本丸・二の丸・三の丸などの城の中心部のある主郭部、その周囲を取り囲む沼の北岸に位置する新正寺曲輪、南岸に位置する新曲輪という、3つのブロックから構成されていました。さらに城の西側及び南側の一帯には武家屋敷と町家、寺社地などからなる城下町が形成・配置され、その周囲を巨大な土塁と堀からなる大構が取り囲んでいました。
この岩槻公園のあたりは、そのうちの新曲輪部分にあたっており、その大部分が埼玉県史跡に指定されています。新曲輪は戦国時代の1580年代に、豊臣政権との軍事対決に備え、その頃岩槻城を支配していた小田原北条氏が岩槻城の防衛力を強化するために設けた曲輪と考えられ、新曲輪・鍛冶曲輪という二つの曲輪が主郭部南方の防備を固めていました。
明治維新後、開発が進んで城郭の面影が失われている主郭部とは対照的に新曲輪部分には、曲輪の外周に構築された土塁、発掘調査で堀障子が発見された空堀、外部との出入り口に配置された二つの馬出しなど、戦国時代末期の城の遺構が良好な状態で保存されています。(さいたま市掲示より)

新編武蔵風土記稿による岩槻城跡について

(岩槻城並城下町)
岩槻城は郡の巽にありて、西南を首とし、東北を尾とす、本丸二丸内外の郭二つの櫓濠七つの城門あり、本城のさまは東北に元荒川の水流れ、東より南へ亘りては堀を設け、或は深田をもて要害にあつ、外郭に五ヶ所の門あり、其内諏訪小路口林道口の門外は、市店連住し、其餘の門外は田間にして、城下町は其内にこもれり、郭外を廻れば凡二里に餘れり、此城のなりし初を尋るに、長禄元年太田入道道灌築きし處にして、其要害巌石をもて城し如くなればとて、岩築の城と名付しと云、されど當所彌勒寺へ、北條相模守重時が寄附せし寛元四年の鐘銘に、武州埼玉郡簸輪郷岩付と彫たれば、其唱もとより舊く、道灌當城を築きしより起ると云は、後人の付會の説なるべし、按に古戰記等に、太田道灌江戸河越岩槻鉢形等九ヶ所の城郭を取立て、長禄元年三月朔日經營なると、後太田美濃守資賴當城にありし時、家人澁井三郎といひしものひそかに、北條左京大夫氏綱にかたらひ内應せしかば、大永五年北條勢攻圍みしにより、城主資賴もふせぎかねて、二月六日に城落いれり、此時城兵三千餘人討死し、資賴は石戸へ引退く、(足立郡石戸にその城址あり、その所か)其後享禄四年の九月、資賴再び軍勢を催し當城を攻けるに、此度は澁井三郎もふせぎかねて見えしが、廿四日終に討死す、よりて又資賴が持城となれり、
(中略)
本丸
土居を築き塀を廻らし、東北は沼にし、西南は堀を構へり、
御茶屋曲輪
本丸の東方に續てあり、
御成御門
本丸の西南にあり、この門を出れば車橋門の内に至る、御茶屋・曲輪・御成門等の名ある、日光御宮御参詣の刻、御宿城となれる故なり
二丸
本丸の南の方なり、ここも四方に堀を構へ、土居を築き、北の方に門あり、
竹澤曲輪
二丸の西南に續けり
天神曲輪
本丸・二丸の中間にて、東方によれり
明戸口
天神曲輪の東北にあり、ここを出れば本城のうしろを廻り、はては新正寺曲輪に至れり、
武具蔵三ヶ所
二は本丸・二丸の中間にあり、一は植木屋敷の外にあり、
車橋門
御成門の外西方にあり、ここを出れば植木屋敷に至れり、
植木屋敷
櫓二
一は大手門の北にあり、一は南方侍屋敷の西にあり、
新正寺曲輪
本城の東の方にて城の背後を廻りて北方に至れり、帯曲輪と云西北に門あり、此を出れば田中町に至れり
大手門
本丸の西北にあり、前に馬出しを構へり、
澁江口門
大手門の西北にして、岩槻往還より大手の方へ通ずる口なり、門内は士屋敷なり、これ内外境の口にして、外来の人容易に出入することを許さず、
撞鐘
澁江口の内にあり、鐘には享保五年城主永井伊賀守鑄造の由を彫れり、澁江町の里正某が承りにて、二六の時を報ずることを司れり、
木下門
澁江口の西南にあり、この内にも士屋敷ありて、江戸小路など唱ふる所あり、
裏小路
これも西南の方にて、この内も士屋敷なり、新小路とも呼り、
天神小路
大手門の前より西南の方への直路なり、南方に木戸あり、天神口と號す、
諏訪小路
大手門の前より東南に入る小路にして、ここも士屋敷あり、東南の橋に門あり、此門を出れば富士宿町に至れり、(新編武蔵風土記稿より)


岩槻城跡所蔵の文化財

  • 岩槻城城門(さいたま市指定文化財)
  • 岩槻城裏門(さいたま市指定文化財)

岩槻城城門

この門は岩槻城の城門と伝えられる門である。岩槻城内での位置は明らかではないが、木材部分が黒く塗られていることから、「黒門」の名で親しまれている。
門扉の両側に小部屋を付属させた長屋門形式の門で、桁行(幅)約十三メートル、梁間(奥行)約三.七メートルである。屋根は寄棟造で瓦葺き。
廃藩置県に伴う岩槻城廃止により城内より撤去されたが、昭和四十五年(1970)城跡のこの地に移築された。この間、浦和の埼玉県庁や県知事公舎の正門、岩槻市役所の通用門などとして、移転・利用された。
修理・改修の跡が著しいが、柱や組材、飾り金具などに、重厚な城郭建築の面影を伝えている。岩槻城関係の数少ない残存遺構として貴重なものである。(さいたま市教育委員会掲示より)

岩槻城裏門

この門は岩槻城の城門である。岩槻城の裏門と伝えられるが、城内での位置は明らかではない。
現状では、門扉を付けた本柱と後方の控柱で屋根を支える薬医門形式となっている。間口約三メートル、奥行約二メートルであり、向かって左側袖塀に門扉左に潜戸を付属している。屋根は切妻造で瓦葺き。
左右の本柱のホゾに記された墨書銘により、江戸時代後期の明和七年(一七七〇)に当時の岩槻城主大岡氏の家臣武藤弥太夫らを奉行として修造され、文政六年(一八二三)に板谷官治らを奉行として修理されたことが知られる。数少ない岩槻城関係の現存遺構の中でも、建築年代の明確な遺構として貴重なものである。
廃藩置県に伴う岩槻城廃止後、民間に払い下げられたが、明治四十二年(一九〇九)以降、この門を大切に保存して来られた市内飯塚の有山氏から岩槻市に寄贈され、昭和五十五年(一九八〇)岩槻城跡の此の地に移築された。なお、門扉右の袖塀はこの時付け加えられたものである。(さいたま市教育委員会掲示より)

岩槻城跡の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」