長伝寺。さいたま市中央区本町東にある浄土宗寺院

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長伝寺。観智国師が真言宗から浄土宗に改めて開山

長伝寺の概要

浄土宗寺院の長伝寺は、貞樹山観智院と号します。長伝寺の創建年代は不詳ながら、古くより当地に真言宗寺院として長伝寺があったといいます。後に芝増上寺12世となる観智国師が当寺を浄土宗に改めて開山、江戸期には幕府より寺領寄進の御朱印状を拝領していたといいます。

長伝寺
長伝寺の概要
山号 貞樹山
院号 観智院
寺号 長伝寺
住所 さいたま市中央区本町東5-13-13
宗派 浄土宗
葬儀・墓地 -
備考 -



長伝寺の縁起

長伝寺の創建年代は不詳ながら、古くより当地に真言宗寺院として長伝寺があったといいます。後に芝増上寺12世となる観智国師が当寺を浄土宗に改めて開山、江戸期には幕府より寺領寄進の御朱印状を拝領していたといいます。

新編武蔵風土記稿による長伝寺の縁起

(與野町)長傳寺
浄土宗、江戸増上寺末、貞樹山観智院と號す、古は御朱印地なりしが、後故ありて収公せられしと云、開山は普光観智国師なれど、それより以前草創ありし古刹を中興せしなるべしと云、本尊は弥陀の立像長三尺許、恵心の作なり、又愛染の像あり、長五寸許、運慶の作なり、佛前に葵御紋を彫たる木地の香爐一箇あり、公より御寄附のものなりと云ふ。
寺寶。
阿弥陀畫像一軸。紺地に金泥をもて上品上生の弥陀を畫けり、尤大幅なり、御絵所了琢が筆にて其様結構なり、筥の上に増上寺三十九世僧覺與寄附せし由を記す、是は追福の為に増上寺にて萬部の法要行はれし時、鈞命にて畫しめ賜ひしものなりと云ふ。
鐘楼。古鐘は元禄年中の鋳造にて、丸某の寄附なり、其後延享三年改鋳せり。
観音堂。長三尺許なる行基の作なりし観音を安ず。(新編武蔵風土記稿より)


長伝寺所蔵の文化財

  • 木造聖観音坐像(さいたま市指定文化財)
  • 西沢曠野の墓(さいたま市指定文化財)
  • 長伝寺開山観智国師関係史料(さいたま市指定文化財)
  • 伊達政宗書状(さいたま市指定文化財)

木造聖観音坐像

この仏像は、像高八二・八センチメートル、寄木造り、玉眼で、慈悲にあふれる相を成し、優しさを感じさせる。頭部は宝髻を高く結いあげ毛筋彫りで、金銅透かし彫りの宝冠を戴く。右手を屈肘し第一、二指を捻じ、左手は未敷蓮を捧げる。結跏趺坐像である。造形的にすぐれ、洗練された安定感がある。江戸時代(元禄期)の作である。
この仏像の特徴は、軽く口を開いて歯をのぞかせている「歯仏の観音」と呼ばれる点で、生身の仏を象徴したものと考えられている。より身近な観音様であって欲しいとする心のあらわれであろう。
昭和六二年(一九八七)市指定文化財となる。(さいたま市教育委員会掲示より)

西沢曠野の墓

西沢曠野は、寛保三年(一七四三)本町に生まれました。
江戸に出て、儒学者細井平洲の門人となり、与野に帰郷後、家業のかたわら漢学塾を開き近在の子弟教育にあたりました。みずからも儒教道徳を実践し、数々の徳行をおこないました。性格は温厚篤実で、天明の大飢饉にあたっては私財をなげうって窮民救済にあたり、後世「与野聖人」と慕われました。
晩年の画からは、柔和な中にも強い意思を秘めた風貌と厳しい道徳実践者の姿がうかがわれます。文政四年(一八二一)七十九歳で没し長伝寺に葬られました。
昭和三九年(一九六四)一月十三日市指定となる。(さいたま市教育委員会掲示より)

長伝寺開山観智国師関係史料(観智国師真筆、長伝寺開山伝記)

観智国師(一五四四〜一六二〇)は与野に天正二年(一五七四)以来、十数年在住し、真言宗であった長伝寺を浄土宗に改宗して開山となりました。
その後、芝(東京都港区)の増上寺第十二世住職となり、浄土宗の高僧として多くの事績を残しました。
「観智国師真筆」は掛軸で、「三縁山十二世中興普光観智国師」と書かれ、花押と印象が押されています。
「長伝寺開山伝記」は和綴本で、観智国師と与野との関係を伝える貴重な史料です。
昭和三七年(一九六二)六月九日市指定となる。(さいたま市教育委員会掲示より)

伊達政宗書状

この書状は、寛政九年(一六三二)政宗が臨済宗南禅寺の高僧以心崇伝(本光国師)に出した書状。道春(林羅山)の帰りと崇伝との会見を願ったもの。
昭和五五年(一九八〇)四月二八日市指定となる。(さいたま市教育委員会掲示より)

長伝寺の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」