大興寺。寺領30石の御朱印状、武蔵国八十八ヶ所霊場
大興寺の概要
真言宗智山派寺院の大興寺は、慈眼山観音院と号します。大興寺は、永義(永禄2年1559年寂)が開山、徳川家康が関東入国した天正年間には寺領30石の御朱印状を拝領、回録に際して御朱印状を焼失してしまい一旦召し上げとなったものの、元禄年間により御朱印状が再開されたといいます。武蔵国八十八ヶ所霊場47番、新秩父三十四ヶ所霊場4番です。
山号 | 慈眼山 |
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院号 | 観音院 |
寺号 | 大興寺 |
住所 | さいたま市緑区大門2583 |
宗派 | 真言宗智山派 |
本尊 | 不動明王像 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
大興寺の縁起
大興寺は、永義(永禄2年1559年寂)が開山、徳川家康が関東入国した天正年間には寺領30石の御朱印状を拝領、回録に際して御朱印状を焼失してしまい一旦召し上げとなったものの、元禄年間により御朱印状が再開されたといいます。
新編武蔵風土記稿による大興寺の縁起
(大門宿)大興寺
新義眞言宗、原村密蔵院末、慈眼山観音院と號す、本尊不動は興教大師の作にて長三尺許、天正年中寺領三十石の御朱印を賜ひしが、回禄のために烏有となり、再び元禄年中に賜へりと云、開山永義永禄二年四月八日寂す。
鐘楼。鐘は寶永年中鑄造せしものなり。
東照宮。寶暦年中勘定し奉ると云、青龍権現を相殿とす。
稲荷社。
観音堂。如意輪観音にて長一尺五寸許、行基の作。
塔頭
多門寺。地蔵を本尊とせり、開山尊清元和譽年五月十四日寂せり。
天神社(新編武蔵風土記稿より)
大興寺所蔵の文化財
- 徳本上人念仏供養塔一基
- 来迎阿弥陀三尊板石塔婆一基
徳本上人念仏供養塔一基
徳本上人は、江戸時代後期に活躍した浄土宗の僧です。宝暦八年(一七五八)、紀伊国(現和歌山県)の生まれで、文化十三年(一八一六)、江戸に下り、小石川一行院を道場に東国各地を巡り、念仏化道を勧めました。その会所の多くは寺院境内ですが、浄土宗以外の寺院も含まれています。また、会所には、このように独特な書体の六字名号と花押を刻んだ供養塔が、講中により建てられました。
ここの供養塔は、正面に南無阿弥陀仏の六字名号を「徳本」の名、そして花押が、右側面には「五十年 夢のうき世と思ふへし ねても覚ても後世を忘るな」の御詠歌、左側面に「文化十四歳次丁丑四月朔日留錫化益、当山十七世法印永津臨終念仏講中敬白」の建立主旨が刻まれています。台石には世話人、講中名が刻まれていますが、その範囲は、ここ大門宿を中心に、北は岩槻町(現岩槻市)から南は戸塚村(現川口市)にまで及んでいます。
徳本上人の念仏供養塔は、関東地方にも数多く建てられており、市内にもほかに二基が現存しています。これらは近世の浄土宗や講の発展を知る上で重要なものです。
なお、この供養塔は、文政四年(一八二一)九月に建立されたことが近年、明らかになりました。(駒崎家文書)(大興寺・浦和市教育委員会掲示より)
来迎阿弥陀三尊板石塔婆一基
下端を欠いていますが上半分の保存状態は良好です。天蓋の下に阿弥陀三尊来迎図が陰刻してあり、陰刻部には金泥が残っています。
三尊ともに飛雲にのり、阿弥陀如来は蓮台上で正面を向き、来迎印を結んでいます。その下、向かい合った両脇侍はやや腰を曲げた姿です。また、図像の下には五行にわたって梵字の光明真言が刻まれていたようで、その一部が残っています。紀年銘は惜しくも失われていますが、優雅な仕上げであり、南北朝時代の造立と考えられます。
市内には五百基を超える板石塔婆がありますが、そのうち図像のものは破片を含めても十基ほどしかありません。それらの中で、この板石塔婆は年代的にも古く、美術的価値も極めて高い貴重なものです。(宗教法人大興寺・浦和市教育委員会掲示より)
大興寺の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」