守光院。源頼朝の家臣佐々木三郎守綱が開基、千葉介國胤が再興
守光院の概要
曹洞宗寺院の守光院は、護國山極楽寺と号します。守光院は、佐々木三郎守綱が開基となり護国山守綱院極楽坊と号して創建、天正年間に当地の領主となっていた千葉介國胤が再興、佛日金蓮禅師(元和3年1617年寂)が開山、慶安2年には寺領10石9斗の御朱印状を拝領したといいます。開基の佐々木三郎守綱は、源頼朝の家臣で、頼朝が挙兵した際に当地で兵を集めるために当地に逗留、帰国する際に守本尊を当地に安置したといいます。、武蔵東向寅薬師足立十二札所(北側)特番です。
山号 | 護國山 |
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院号 | 守光院 |
寺号 | 極楽寺 |
住所 | さいたま市南区太田窪5-11-9 |
宗派 | 曹洞宗 |
本尊 | 薬師如来像 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
守光院の縁起
守光院は、佐々木三郎守綱が開基となり護国山守綱院極楽坊と号して創建、天正年間に当地の領主となっていた千葉介國胤が再興、佛日金蓮禅師(元和3年1617年寂)が開山、慶安2年には寺領10石9斗の御朱印状を拝領したといいます。開基の佐々木三郎守綱は、源頼朝の家臣で、頼朝が挙兵した際に当地で兵を集めるために当地に逗留、帰国する際に守本尊を当地に安置したといいます。
新編武蔵風土記稿による守光院の縁起
(大田窪村)守光院
曹洞宗、大崎村國昌寺末、護國山極楽寺と號す、當寺は佐々木三郎守綱の開基にして、開山は佛日金蓮禅師元和三年二月十八日寂せり、本尊は薬師を安ず、立像にて長一尺五寸程、佐々木氏綱の守本尊と云り、又其傍に彌陀を安ず、長一尺許何れも弘法大師の作と云、慶安二年の縁起あり、其内に當寺は治承四年源頼朝義兵を擧し時、佐々木三郎守綱軍兵催促のため當國に下り、當所に於て要害をかまへ、ここに居事五月、歸國の時に及て一小宇を建立して守本尊を安置せり、山を護國と號し院を守綱となづけ、坊を極楽といふ、其後數年を経てこの一宇回禄にかかりしが、其後又一小宇を建立して、薬師と彌陀とを安せり、夫より天正年中に至り、下總の國主千葉介國胤當國の木崎庄を領し、國胤は千葉に在城し、家臣木内右衛門をして當地の堀ノ内に於て、陣屋を構へてここに居らしむ、然るに當地は佐々木守綱の草創にして、其舊跡あるを感じ、寺僧と力を戮して是を再興し、慶安二年寺領十石九斗の御朱印を賜へりと云、守綱の文字を改めて守光とせしは、慶安年中御諱の文字を憚りてかく改し由、これも縁起に見えたり。
普門庵。千手観音を安ず、長二尺許、恵心の作坐像なり。
如意庵。本尊地蔵を置り、傍に閻魔を安ず。(新編武蔵風土記稿より)
守光院の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」