満蔵寺。膝子八幡神社のもと別当寺、北足立八十八ヵ所霊場
満蔵寺の概要
真言宗智山派寺院の満蔵寺は、八幡山明王院と号します。満蔵寺の創建年代等は不詳ながら、永正6年(1509)に開山、膝子八幡神社の別当を勤めていたといい、永深(元禄11年1698年寂)が法流開山だといいます。北足立八十八ヵ所霊場71番です。
山号 | 八幡山 |
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院号 | 明王院 |
寺号 | 満蔵寺 |
住所 | さいたま市見沼区膝子902 |
宗派 | 真言宗智山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
満蔵寺の縁起
満蔵寺の創建年代等は不詳ながら、永正6年(1509)に開山、膝子八幡神社の別当を勤めていたといい、永深(元禄11年1698年寂)が法流開山だといいます。
新編武蔵風土記稿による満蔵寺の縁起
(膝子村)八幡社別當満蔵寺
眞言新義、浦寺村地蔵院末、八幡山明王院と號す、開山詳ならず、法流開山を永深と云、此僧は元禄十一年十一月寂せり、本尊不動は惠心僧都の作にして、長五寸許。
三峰社、不動堂。(新編武蔵風土記稿より)
さいたま市掲示による満蔵寺の縁起
満蔵寺は、新義真言宗の寺で八幡山明王院と称す。開山は不明であるが、法流開山は永深といい、元禄十一年(一六九八)十一月に亡くなっている。
江戸時代には、本尊に恵心僧都の作と伝えられる高さ五寸あまりの不動を祀っていたが、現在は新しいものとなっている。
境内には、大宮市指定文化財の板石塔婆があり、嘉暦四年(一三二九)九月廿三日の銘が読みとれる。彫りも鋭く、整った美しさを持っている。また円空仏(阿弥陀像)も市指定文化財になっているが、これは現在埼玉県立博物館へ寄託している。(さいたま市掲示より)
満蔵寺所蔵の文化財
- 満蔵寺板石塔婆(大宮市指定有形文化財)
- 満蔵寺円空作阿弥陀像(大宮市指定有形文化財)
満蔵寺板石塔婆
板石塔婆は供養のため造立された卒塔婆の一種で板碑とも呼ばれ市内では一二七0余基(県下一の基数)が確認されています。頭部が三角形の山形をなし、その底辺部分に二条線を刻み、塔身部上部には造立者の信仰する仏や菩薩を文字や図像で表わし、願文や造立年月日を刻したのが基本的な形といえます。満蔵寺板石塔婆は、塔身上部には阿弥陀像(キリーク)、その右脇下に観音像(サ)、左脇下に勢至像(サク)がそれぞれ蓮台上に梵字(サンスクリット=古代インド文字)で陰刻(薬研彫)される三尊形式の代表的なものです。
塔身部下部中央には、この板石塔婆を造立したと思われる年月日「嘉暦四年(一三二九)九月廿三日」が確認できます。その両側には各二行ずつ梵字光明真言(これを唱えれば、あらゆる苦難を除き大きな功徳を受けることができるといわれています)が陰刻されています。光明真言は全基数の約一割にみることができます。
石材は、加工しやすく美観にも優れる緑泥片岩を用いています。この石は秩父地方で産するものです。武蔵地方の大部分の板石塔婆に使用されています。(大宮市教育委員会掲示より)
満蔵寺円空作阿弥陀像
円空仏とは、江戸時代初期の修行僧であった円空上人が彫んだところから名づけられたものです。現在、埼玉県内には一三〇余体の円空仏が確認されており、大宮市にはその約半数にあたる六三体が確認されています。
円空は、寛永九年(一六三二)頃、美濃国竹ヶ鼻(岐阜県羽島市)で生まれたといわれ、修験道の修行に励みました。修行中に仏像一二万体の造像を発願し、布教のため寛文年間(一六六一-七三)に諸国遍歴の旅にでたといい、埼玉には二度程(延宝八年[一六八〇]~天和二年[一六八二]頃及び元禄二年[一六八九])訪れています。市内に存在する円空仏が、布教の東半分にあり、かつ、寺の西側を通る日光御成道沿いに集中しているのも、旅僧円空を偲ばせます。
円空仏は、丸太のままや、一本の木を縦に三つ・四つに割り、割れた粗い面を、顔・合掌の手・腹部などに生かし、極端にいうならば素材に切り込みを入れるだけで素材のもつ美・強さを押し出しています。満蔵寺の円空仏は、円空仏の特色の一つである細く切れ長の目をもち、口もとに親しみのある微笑をただよわせています。単純なノミさばきのなかに、丸味をおびたやわらかい感じがよく出ています。(大宮市教育委員会掲示より)
満蔵寺の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」