島田天神社。坂戸市島田の神社

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島田天神社。坂戸市島田の神社

島田天神社の概要

島田天神社は、坂戸市島田にある神社です。島田天神社は、草分け六軒が永禄年間(1558-1570)に当地を開拓、開拓の成就を願い京都北野天神を勧請したと伝えられます。江戸期には東蔵寺境内で祀られて、諏訪社が村の鎮守とされていました。明治維新後の社格制定に際し、明治5年村社に列格、明治41年道免の神明社・勝呂の諏訪社・稲荷本町の稲荷社・町西の九頭竜社を合祀しています。

島田天神社
島田天神社の概要
社号 天神社
祭神 菅原道真公
相殿 -
境内社 諏訪社・稲荷社・九頭龍社、小御岳磐長姫大神・富士浅間大神
祭日 例大祭3月25日、夏祭7月20日前後の日曜日
住所 坂戸市島田722-3
備考 -



島田天神社の由緒

島田天神社は、草分け六軒が永禄年間(1558-1570)に当地を開拓、開拓の成就を願い京都北野天神を勧請したと伝えられます。江戸期には東蔵寺境内で祀られて、諏訪社が村の鎮守とされていました。明治維新後の社格制定に際し、明治5年村社に列格、明治41年道免の神明社・勝呂の諏訪社・稲荷本町の稲荷社・町西の九頭竜社を合祀しています。

新編武蔵風土記稿による島田天神社の由緒

(島田村)
諏訪社
東蔵寺の持、當村の鎮守なり
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稲荷社
同寺の持なり、
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東蔵寺
禅宗、済家郡内今市村正法寺の末、天林山と號す、當寺元は天神坊と云る坊舎なりしが、何の頃か一寺となり、今の寺號に改めし吉、第二世の僧を繁寂とのみ傳へて、其示寂の年月をしらず、本尊薬師を安ず、按に境内に天神社あり、當寺元天神坊と稱せしといへば、往古は天神社を守るための坊舎ならんか、一寺となりし後、社は反て纔に境内にあれど、今も村内の鎮守なり、されど其詳なることをしらず、
天神社 (新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による島田天神社の由緒

天神社<坂戸市島田七二二(島田字本天神町)>
当地は越辺川右岸の低地に位置する。口碑に「村の開拓は六軒百姓と呼ばれた時代にさかのぼる」という。古くから頻繁に大水に見舞われる所で、そのたびに大きな災害を被っている。特に、明治四三年秋の大水害の時には土地の様相が一変したという。
社伝によると当社の創祀は、草分けの六軒が入った永禄年中、度重なる災害を恐れた村人が、天神に祈り開拓の成就を願って京都の北野神社を勧請したという。
社記によると天正一八年火災により社殿を焼失する。この火災により古記録を失ったが、寛永一六年に旗本の知行地となった時の検地水帳に社地五畝十歩除地とあり、往時の社の状態が推察できる。
本社再建棟札に「元文二年正月 別当東蔵寺七世天叟宗領代」とある。東蔵寺は元和二年に越生町今市村正法寺四世大雪の開基した寺で天神山と号し、俗に“天神別当”と呼ばれていた。
明治五年に村社となり、同一九年に本殿・拝殿を再建する。同四一年には道免の神明社・勝呂の諏訪社・稲荷本町の稲荷社・町西の九頭竜社を合祀する。
一間社流造りの本殿内には、一〇センチメートルの天神座像があり「正徳五歳川越町法梁鑑全」の銘がある。(「埼玉の神社」より)


島田天神社の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)