高倉日枝神社。鶴ヶ島市高倉の神社

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高倉日枝神社。市指定無形文化財の獅子舞

高倉日枝神社の概要

高倉日枝神社は、鶴ヶ島市高倉にある神社です。高倉日枝神社の創建年代等は不詳ながら、高倉朝臣(高麗福信)が近江国から武蔵国に移住した際に日吉大社を勧請したとも伝えられ、また別の伝承では、当地区が明暦年間(1655-1658)頃に高倉・上新田・中新田・下新田の4村に分村した際、上新田日枝神社を分祀したとも伝えます。なお当社の別当寺だった長泉寺の開山僧良應は元禄4年(1691)に寂していることから、分村時に創建されたことを窺わせます。分村して新たに成立した高倉村の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し明治5年村社に列格、明治40年に、字神明の神明社、字熊野の無格社熊野神社、字富士塚の無格社浅間神社を合祀しています。当社祭礼で奉納される高倉の獅子舞は、鶴ヶ島市無形文化財に指定されています。

高倉日枝神社
高倉日枝神社の概要
社号 日枝神社
祭神 大山咋命
相殿 天照大御神、家都御子神、熊野夫須美神、御子速玉神、木花開耶姫神
境内社 愛宕社、稲荷社、愛宕社、天神
祭日 お九日(秋祭り)9月9日、稲荷講2月初午
住所 鶴ヶ島市高倉36
備考 -



高倉日枝神社の由緒

高倉日枝神社の創建年代等は不詳ながら、高倉朝臣(高麗福信)が近江国から武蔵国に移住した際に日吉大社を勧請したとも伝えられ、また別の伝承では、当地区が明暦年間(1655-1658)頃に高倉・上新田・中新田・下新田の4村に分村した際、上新田日枝神社を分祀したとも伝えます。なお当社の別当寺だった長泉寺の開山僧良應は元禄4年(1691)に寂していることから、分村時に創建されたことを窺わせます。分村して新たに成立した高倉村の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し明治5年村社に列格、明治40年に、字神明の神明社、字熊野の無格社熊野神社、字富士塚の無格社浅間神社を合祀しています。

新編武蔵風土記稿による高倉日枝神社の由緒

(高倉村)
山王社
村の鎮守なり、例祭九月二十九日、長泉寺の持、
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熊野社
持添新田及び上新田の鎮守なり、例祭九月廿九日、村持、下皆同、
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天神社
稲荷社
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淺間社
高さ一丈二尺許の塚上にあり、この塚享保年間川崎平右衛門築作せしと云、脚折村本山修験、正福院持、
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長泉寺
秋葉山と號す、同宗、同寺(入間郡石井村大智寺)の門徒なり、本尊大日を安ず、開山良應元禄四年八月化す、 (新編武蔵風土記稿より)

「鶴ヶ島町史(民俗社会編)」による高倉日枝神社の由緒

高倉字山王に所在する。旧社格は指定村社。通称はサンノウサマ(山王様)、あるいは氏神様。祭神は大山咋神で、天照大御神、家都御子神、熊野夫須美神、御子速玉神、木花開耶姫神が合祀されている。
創立年紀が不詳であるが、『神社明細帳』には古老の口碑として「往古高倉朝臣という人が近江の国に住いして、同国日吉神社の神を信じ、後本村に勧請した」とある。伊勢湾台風で倒れたご神木の樹齢はゆうに一二〇〇年を越えていたことから、近世初期にはすでに当地に奉斎されていたものと思われる。別の伝承によると、当社は上新田の日枝神社を分祀したものとされる。高倉村は中世に大きな勢力を持っており、上新田の地域は中新田、下新田とともにその一部であった。
当社は近世までは山王権現と称したが、明治以降に現在の社号に改称した。拝殿には今も「山王大権現」と書かれた享和二年奉納の額が掛けられている。別当寺であった真言宗長泉寺は廃寺となり、現在は本堂のあった場所には社務所が建っている。
明治四〇年に、字神明の神明社、字熊野の無格社熊野神社、字富士塚の無格社浅間神社、同境内社下浅間神社の四社を合祀した。境内にある末社として、天神社、愛宕神社、稲荷神社がある。
本殿は一間社流造りで屋根は板葺、建造年月は不詳であるが古色蒼然としている。往時は剣と鏡を蔵していたが、剣は盗難にあい紛失し現在は鏡のみが残る。
祀職は、長泉寺の廃寺以前は別当が祭りに参与したものと思われるが、明治期以降は白髭神社宮司が兼務している。(「鶴ヶ島町史(民俗社会編)」より)

「埼玉の神社」による高倉日枝神社の由緒

日枝神社<鶴ケ島町高倉三六(高倉字山王)>
大字高倉の北東部にある字山王に鎮座する。高倉の開発は古く、地内には、縄文中期から弥生時代の住居址である高倉遺跡もある。
また、隣接する上新田・中新田・下新田の三村(いずれも現在は鶴ケ島町の大字)は当地の住民によって開かれたといわれ、もとは高倉の一部であったが、明暦年間に分村した。
当社の創建については、『明細帳』に、「往古近江国から高倉朝臣(高麗福信)が武蔵国に移ってきた時に自ら崇敬する近江の日吉神社の神を、当地に勧請した」という話が古老の口碑として記載されている。この話を伝える勧請は定かではないが、伊勢湾台風で倒れた神木の樹齢は、ゆうに三〇〇年を超えていたことから、既に江戸初期には当地に奉斎されていたものと思われる。古くは山王権現と称し、拝殿には今も「山王大権現」と書かれた享和二年奉納の額が掛けられている。
神仏分離により、別当であった真言宗長泉寺は廃寺となり、当社は社名を現在の日枝神社に改めた。明治五年に村社となり、同四〇年には字神明の神明社、字熊野の熊野神社、字富士塚の浅間神社及びその境内社下浅間神社の四社を合祀し、現在に至っている。
祭神は大山咋神で、一間社流造りの本殿を持つ。往時は剣と鏡を蔵していたが、剣は盗難に遭い紛失したため、現在は鏡だけである。(「埼玉の神社」より)


高倉日枝神社所蔵の文化財

  • 高倉の獅子舞(市指定無形文化財)

高倉の獅子舞

日枝神社の秋祭りに高倉の獅子舞が行われる。この獅子舞は遠い国から訪れた強力な神が、村人の幸福を守るために悪霊。悪疫を退散させてくれるといわれている行事で、村人にとっては国家安泰、天下泰平、五穀豊穣などを祈る行事でもある。
高倉の獅子舞は江戸時代から引き継がれている伝統ある行事で、昭和四十九年に、最初に鶴ヶ島市の文化財に指定された。
その構成は、万灯、天狗、花笠、はいおい(軍配を以て獅子を先導する)、前獅子(男獅子)、中獅子(女獅子)、後獅子(男獅子)などで、ほら貝を合図に数人の笛吹きと歌うたいに合わせて登場する。
花笠は女装した”ささらっこ”と呼ばれる童子四人が花笠をかぶり、”ささら”と呼ばれる楽器を奏でながら舞に参加するので、特に”ささら獅子”とも呼ばれている。
市内で数箇所あった獅子舞も、現在は高倉の獅子舞が唯一のものとなってしまい、たいへん貴重な伝統芸能である。(鶴ヶ島市教育委員会掲示より)

高倉日枝神社の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「鶴ヶ島町史(民俗社会編)」
  • 「埼玉の神社」