藤金富士塚。藤金鎮守の氷川神社跡地
藤金富士塚の概要
藤金富士塚は、鶴ヶ島市藤金にある名所旧跡です。藤金富士塚は、安政年間(1855-1860)に築造されたとされる直径約14m、高さ4mの富士塚で、山頂に浅間神社の石祠、中腹に御嶽社を祀り、麓の洞穴には不動明王像が描かれていたといいます。富士塚が築かれる以前には、藤金の鎮守氷川神社が祀られていたことから、氷川神社の境内に富士塚を築造したものと思われ、大正2年藤金の氷川神社が高徳神社に合祀された際、境内社としての浅間神社も合祀されています。
旧跡・名所名 | 藤金富士塚 |
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区分 | 史跡 |
入場時間 | - |
入場料 | - |
住所 | 鶴ヶ島市藤金 |
備考 | - |
藤金富士塚の縁起
藤金富士塚は、安政年間(1855-1860)に築造されたとされる直径約14m、高さ4mの富士塚で、山頂に浅間神社の石祠、中腹に御嶽社を祀り、麓の洞穴には不動明王像が描かれていたといいます。富士塚が築かれる以前には、藤金の鎮守氷川神社が祀られていたことから、氷川神社の境内に富士塚を築造したものと思われ、大正2年藤金の氷川神社が高徳神社に合祀された際、境内社としての浅間神社も合祀されています。
坂戸市・埼玉県掲示による藤金富士塚について
従来この富士塚は古墳時代後期の古墳として取り扱われてきましたが、昭和六十年に鶴ヶ島市教育委員会が行った調査などの結果から古墳ではなく富士塚であることがわかりました。
富士塚は江戸時代から明治時代にかけて流行した代表的な民間信仰「富士講」の象徴であり、その起源は富士講の行者の記念碑として安永年間に築造したものといわれています。
富士山の形に似せた塚を築き木花之開耶姫命を勧請し、中腹に御嶽社、麓に御胎内の洞穴等まで造ったもので、現地にいけない人も恩徳を受けることが出来るようにと造ったものです。
市内の富士塚は、現在数基しか残っておらず、この富士塚は中でも際立って大きなもので、富士塚関係の古文書や民俗資料が併存するのもこの富士塚だけです。
江戸と明治にかけて庶民の山岳信仰の遺物として、民俗・歴史的観点から貴重な遺産であり文化財として永く保存、活用していく必要があります。
東西約十四米 南北長約十四米 高さ約四米(埼玉県・鶴ヶ島市掲示より)
「鶴ヶ島町史(民俗社会編)」による藤金富士塚について
高徳神社
藤金の氷川神社はその草分けとされる集落(大下)の南西に所在し、参道もそちらの方向に延びていた。祭神は素戔嗚命、稲田姫命。この境内には明治期に富士塚が築かれ、現在も原形をとどめている。(「鶴ヶ島町史(民俗社会編)」より)
「埼玉の神社」による藤金富士塚について
高徳神社<鶴ケ島町太田ケ谷六一七-一(太田ケ谷字新井)>
大字藤金には合祀以前、村社氷川神社が祀られていた。元地は古墳である可能性が高く、現在発掘調査が行われている。口碑によると、合祀以前は、社殿裏の塚上に浅間神社の石祠があったという。又塚の傍らには隧道が掘られており、隧道の突き当たりの壁面に不動明王像が描かれていたといい、社殿前には弁天様の池があったという。(「埼玉の神社」より)
新編武蔵風土記稿による藤金富士塚について
(藤金村)
氷川社
村の鎮守なり、例祭三月十四日、法昌寺持、下同、
辨天社
稲荷社(新編武蔵風土記稿より)
藤金富士塚の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」
- 「鶴ヶ島町史(民俗社会編)」
- 「埼玉の神社」