善應寺。坂戸市善能寺にある曹洞宗寺院

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大龍山善應寺。坂戸市善能寺にある曹洞宗寺院

善應寺の概要

曹洞宗寺院の善應寺は、大龍山と号します。善應寺の開創については不詳ながら、無窓國師(1351年寂)を勧請開山として廣澤善應入道が文和年間(1352-1356)に創建したと伝えられます。また、享保年間に作成された金比羅権現の縁起によると、延元2年(1336)に崇徳院と号して苦林に開創、貞治年間(1362-1368)戦乱により罹災、無窓國師を勧請開山として再建したと伝えています。承応2年(1653)にに多和目永源寺第4世本秋が曹洞宗に改めて開山しています。当地名発祥の寺院えす。

善應寺
善應寺の概要
山号 大龍山
院号 -
寺号 善應寺
本尊 聖観世音菩薩像
住所 坂戸市善能寺163
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 -



善應寺の縁起

善應寺の開創については不詳ながら、無窓國師(1351年寂)を勧請開山として廣澤善應入道が文和年間(1352-1356)に創建したと伝えられます。また、享保年間に作成された金比羅権現の縁起によると、延元2年(1336)に崇徳院と号して苦林に開創、貞治年間(1362-1368)戦乱により罹災、無窓國師を勧請開山として再建したと伝えています。承応2年(1653)にに多和目永源寺第4世本秋が曹洞宗に改めて開山しています。

新編武蔵風土記稿による善應寺の縁起

(善能寺村)
善能寺
大龍山と號す、曹洞宗、田波目村惠源寺の末なり、當寺は村名にも稱する所にして、古刹なることは論なけれども、開闢の来由其説區々にして、慥なることを知らず、或は云古済家の寺院にして、文和年中廣澤善應入道と云者起立し、無窓國師を請て開山とせしが、遥の後承應二年に至りて、今の宗に改め本山四世僧本秋を開山に定むと云、其時寺號を改て能の字に記替しと云へど、夫より先のものにも既に能の字に書しものあれば、是は後人の闇推なるべし、又當寺にて管する所の金毘羅縁起を閲するに、當寺の院號を崇徳院と號し、延元二年郡中苦林村に建立せしを、貞治年中に至りて鎌倉管領基氏、芳賀伊賀守と戰争の時、當宇以下兵火に罹りて烏有となれり、其後無窓國師當國へ飛錫の時、當所に憩息し宇を胥て、一宇を起して崇徳院となづけ、彼の絶たるを繼しより、又若干の星霜を經て、今の宗旨に改む、夫より第三世の僧を秋月と云、此僧思らく當院崇徳と號すること、全く讃岐院の尊號に觸ること恐なきにあらずとて、彼の院の尊靈を祀り、金毘羅社と崇め奉れり、是享保年中の事なりと云々、大意かくの如し、然れば善應入道が國師を開山として起立せしも全くの開闢にあらず、元苦林野の廢寺崇徳院を爰へ移して、國師を中興の初師とせしなるか、今禅林僧傳無窓國師塔銘序文を閲るに、國師當國飛錫の事をのせず、只正中三年八月勢州を經歴して、善應を開山とせしことをのす、かゝることによりて、國師の開闢なる由を附會せしにあらずや、又客殿の古位牌には、開山玉芳菊和尚天正五年八月十日寂すと記す、抑崇徳の院號の説疑なきにあらざれど、今川角村に崇徳寺跡と稱する所あり、彼村は苦林村に隣り、且彼村に屬せし玉林寺村には、苦林野の古戰場係りしことは、既にその村の條に辨せし如くなれば、川角村も元は苦林野の内なりしも知べからず、果してしからんには、いわれなき傳へとも言ふべからず、又今玉芳を開山とせずして、本秋を開山とすることは惠源寺の末山に屬せし時よりの事にてもあるべし、本尊正觀音長八寸、行基菩薩の作なりといふ、
古碑二基。五輪の塔にして、闕損じたるものなり、其一は面に性源上坐としるし、永正□丙三年□□と刻す、又一は永眞大師應永十年壬辰十月廿一日と彫る、(新編武蔵風土記稿より)


善應寺の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」