善能寺金比羅神社。坂戸市善能寺の神社
善能寺金比羅神社の概要
善能寺金比羅神社は、坂戸市善能寺にある神社です。善能寺金比羅神社は、善應寺所蔵の「金比羅縁起」によると、善應寺は院号を崇徳院と称していたものの、享保年間(1716-1736)の時の善應寺住職が院号を憚り、(崇徳天皇が流罪とった讃岐の)金比羅権現を勧請して祀ったとしています。明治41年に入西神社に合祀されましたが、社殿はそのまま残され祀られています。
社号 | 金比羅神社 |
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祭神 | - |
相殿 | - |
境内社 | 稲荷神社 |
祭日 | - |
住所 | 坂戸市善能寺 |
備考 | - |
善能寺金比羅神社の由緒
善能寺金比羅神社は、善應寺所蔵の「金比羅縁起」によると、善應寺は院号を崇徳院と称していたものの、享保年間(1716-1736)の時の善應寺住職が院号を憚り、(崇徳天皇が流罪とった讃岐の)金比羅権現を勧請して祀ったとしています。明治41年に入西神社に合祀されましたが、社殿はそのまま残され祀られています。
新編武蔵風土記稿による善能寺金比羅神社の由緒
(善能寺村)
愛宕社
金比羅を相殿とす、善能寺持、愛宕社の由緒は傳へざれど、金毘羅には縁起一巻あり、善能寺に所蔵す、其大略は下にのす
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善能寺
當寺にて管する所の金毘羅縁起を閲するに、當寺の院號を崇徳院と號し、延元二年郡中苦林村に建立せしを、貞治年中に至りて鎌倉管領基氏、芳賀伊賀守と戰争の時、當宇以下兵火に罹りて烏有となれり、其後無窓國師當國へ飛錫の時、當所に憩息し宇を胥て、一宇を起して崇徳院となづけ、彼の絶たるを繼しより、又若干の星霜を經て、今の宗旨に改む、夫より第三世の僧を秋月と云、此僧思らく當院崇徳と號すること、全く讃岐院の尊號に觸ること恐なきにあらずとて、彼の院の尊靈を祀り、金毘羅社と崇め奉れり、是享保年中の事なりと云々、大意かくの如し、 (新編武蔵風土記稿より)
「入間郡誌」による善能寺金比羅神社の由緒
金比羅神社
坂戸越生街道に面し、約一丈許の塚上にあり。近隣に名を知られたる神社にして、今は入西神社へ合祀せられたれども尚賽客多しと云ふ。其金比羅縁起も亦著名にして、寛政年中に成り風土記にも屡々引用せられたれど、其記す所、稍々雑然たるの嫌あり。且其記事に稍年代の誤謬あるが如し。(「入間郡誌」より)
「埼玉の神社」による善能寺金比羅神社の由緒
入西神社<坂戸市小山七二(小山字北林)>
合祀社の跡地の多くは社有地となっていたが、戦後の農地改革によって失った。しかし、善能寺の琴平神社・新堀の金山神社・北峰の稲荷神社は現在も社殿があり、祭祀も行われている。(「埼玉の神社」より)
善能寺金比羅神社の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)