堀兼の井。狭山市堀兼にある名所旧跡

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堀兼の井。狭山市堀兼にある名所旧跡

堀兼の井の概要

堀兼の井は、狭山市堀兼にある名所旧跡です。堀兼の井の造成については不詳ながら、「七曲井」は「竪堀り井戸を掘る技術が確立していなかった頃に、平安中期に開拓と交通の便を図るため武蔵国府によって造成されたのではないか」としていることから、堀兼の井も同様ではないかと思われます。堀兼の井は、「枕草紙」や藤原俊成(1114-1204)の「千戴集」にも記載されており、この井が「堀兼の井」であるかどうか確定できないものの、江戸時代より当井戸が中世より詠われてきた「堀兼の井」であろうと推測されています。

堀兼の井
堀兼の井の概要
名称 堀兼の井
見どころ 中世井戸
入場時間 -
入場料 -
住所 狭山市堀兼2221堀兼神社
備考 -



堀兼の井の由来

堀兼の井の造成については不詳ながら、「七曲井」は「竪堀り井戸を掘る技術が確立していなかった頃に、平安中期に開拓と交通の便を図るため武蔵国府によって造成されたのではないか」としていることから、堀兼の井も同様ではないかと思われます。堀兼の井は、「枕草紙」や藤原俊成(1114-1204)の「千戴集」にも記載されており、この井が「堀兼の井」であるかどうか確定できないものの、江戸時代より当井戸が中世より詠われてきた「堀兼の井」であろうと推測されています。

新編武蔵風土記稿による堀兼堀兼の井について

(堀金村)
堀兼井跡
村の東南淺間塚の邊にあり、圓徑四間深さ一丈許の穴なり、近き頃其中に石を以五尺四方の井筒を組、側に寶永五年秋元但馬守喬知が、家人岩田彦助なるものに命じて立たる碑あり、其文もあれど考へと成べきものにあらざれば、略して戴せず、按に此井の名は古くは【枕草紙】に井は堀かねの井と見えたり、されど何の國なることは載せず、ただ【千戴集】に藤原俊成卿の歌をのせて、武蔵野の堀かねの井おあるものをうれしや水の近づきにけり、とあるをみれば當國にて名だたる物なることしらる、かく俊成卿の詠に入しより、後は全く當國の名所と定りて、世々の歌人も其詠多くして徧く人の知る所なれど、其舊跡は詳ならず、今傳ふるは當郡は元よりなり、他の郡にも堀兼の井跡と稱する井餘たありて、何れを實跡とも定めがたし、されど既に村の條下にしるせる如く、元弘三年五月十五日相模入道の舎弟四郎左近大夫入道慧性分倍へ押寄攻たりければ、義貞終に打まけて堀金をさして引退けりと云、すなはちこの所なるべし、ことに後年全く村名ともなせしなれば、恐くは當所のを實跡とすべきか、又【回國雑記】に堀兼井見にまかりて讀る、今は高井戸と云とあるに由れば、多磨郡高井戸宿に堀兼井の舊跡あるに似たれど、今其地につきて尋るにそこと覺しき所もなく、村老もかかる古跡のことは聞も傳ずといへば、高井戸と記せしは、ただ井戸と云名によりて、其頃あなひせしものの妄に傳へすも亦しるべからざれば、是らは尤信じがたし。(新編武蔵風土記稿より)

埼玉県教育委員会・狭山市教育委員会掲示による堀兼堀兼の井について

「武蔵野の堀兼の井もあるものをうれしく水の近づきにけり」(千戴集、藤原俊成一一一四~一二〇四)という歌にもあるように、堀兼の井は古くから書物に現われ非常に有名なものです。しかし、武蔵野には、数多くの「堀兼井」と称されるものがあったと推定され、この堀兼神社境内にある「堀兼の井」が古くから言われている「堀兼の井」かどうかはわかりません。しかし、江戸時代から史跡として知られた場所であったことは間違いなく、宝永戊子年(一七〇八)の「堀兼井碑」や、天保十三年(一八四二)の碑も現存しています。
この井の形態や使用法は入曽の七曲井と同様と考えられ、昔は重要な役割を持っていたと思われます。
藤原俊成の歌のほかにつぎのような歌もみられます。
「あさからす思へはこそほのめかせ 堀金の井のつつましき身を」俊頼集 源俊頼(一〇五五~一一二九)
「くみてしる人もありなん自づから 堀兼の井のそこのこころを」山家集 西行法師(一一一八~一一九〇)
「いまやわれ浅き心をわすれみす いつ堀兼の井筒なるらん」拾玉集 慈円(一一五五~一二二五)
(埼玉県教育委員会・狭山市教育委員会掲示より)

堀兼の井の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿

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