出雲祝神社。延喜式内社出雲伊波比神社の論社
出雲祝神社の概要
出雲祝神社は、入間市宮寺にある出雲祝神社です。出雲祝神社は、日本武尊が東夷征伐のとき、当地小手指ヶ原で、天穂日命、天夷鳥命を祭祀創建した出雲伊波比神社の論社(延喜式内社論社)だといい、当社の存在により宮寺郷と呼ばれる地名が起ったといいます。戦国時代には出雲祝神社と称していたといいますが、江戸期には寄木明神社と称し、天正19年徳川家康より社領10石の御朱印状を拝領したといいます。明治2年出雲祝神社と改め、明治5年村社に列格していました。
社号 | 出雲祝神社 |
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祭神 | 天穂日命・天夷鳥命・兄多毛比命 |
相殿 | 菅原道真公、他7柱 |
境内社 | 八雲神社、護国神社 |
祭日 | 例大祭 |
住所 | 入間市宮寺1 |
備考 | 旧村社 |
出雲祝神社の由緒
出雲祝神社は、日本武尊が東夷征伐のとき、当地小手指ヶ原で、天穂日命、天夷鳥命を祭祀創建した出雲伊波比神社の論社(延喜式内社論社)だといい、当社の存在により宮寺郷と呼ばれる地名が起ったといいます。戦国時代には出雲祝神社と称していたといいますが、江戸期には寄木明神社と称し、天正19年徳川家康より社領10石の御朱印状を拝領したといいます。明治2年出雲祝神社と改め、明治5年村社に列格していました。
新編武蔵風土記稿による出雲祝神社の由緒
(中野村)寄木明神社
御朱印社領十石を賜はる神名帳に載たる国渭地祇神社是なりと、口碑に傳へたれど、させる證跡はなし、祭神は素盞嗚尊を祀ると云、本社幣殿拝殿等備りて前に木の鳥居を建、矢寺・萩原・小谷戸・大森・中野・坊・二本木等七村の鎮守なり、此邊を宮寺郷と號することも、當社に権與せしならんと云。
神職。北野村天神神主、栗原左衛門兼て司どる。(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による出雲祝神社の由緒
出雲祝神社 <入間市宮寺一(宮寺村字寄木森)>
当社は、狭山丘陵の北麓、不老川の流域にある。氏子区域宮寺は古くから人々の居住した所で、縄文中期の石塚遺跡、古墳後期の元狭山久保地坑遺跡がある。当社創建を語る社伝も古く、景行天皇の代、日本武尊が東夷征伐のとき、当地小手指ヶ原に至り、天穂日命、天夷鳥命を祭祀して出雲伊波比神社としたという。
所蔵の棟札(六二.八センチメートル)に「伊都毛伊波比再造 牟射志入間臣宇助 大寶二年壬寅九月廿九日」がある。
当社は式内社、出雲伊波比神社の論社とされているが、他に毛呂の出雲伊波比神社、北野物部天神社、川越の氷川神社などの論社がある。『風土記稿』に寄木明神社とあるのが当社で「御朱印社領十石を賜はる神明帳に載たる国渭地祇神社是なりと、口碑に伝へたれど、よせる証跡はなし、祭神は素盞鳴尊を祀ると云、本社幣殿拝殿等備りて前に木の鳥居を建、矢寺・荻原・小谷戸・大森・中野・坊・二本木等七村の鎮守なり、此辺を宮寺郷と号することも、当社に権与せしならんと云」とあり、また『武蔵野話』に「寄木宮とて素盞鳴尊を祀る、恐らくは出雲伊波比神祠ならんか、此に依て此地を宮寺といえるなるべし」とある。これによって江戸期当社を寄木宮、祭神を素盞鳴尊としていたと思われるが社蔵文書の北条氏康朱印状には「出雲祝神社中、棟別之事、指置之畢横合之儀不可有候、依如件、弘治三年丁已十一月廿七日、狩野大膳亮、庄式部少輔奉之」とあり、天正一九年徳川家康朱印状は「大明神」名であり、様々な名称で呼ばれたことがわかる。
地名にも残る「寄木」については、社記に「この辺の氏族は出雲系で、出雲の国杵築湾に漂う木を取りあげ造られたのが出雲大社であり、天穂日命が東国に下ったとき杵築湾に漂い寄った樹種を携えてきて播種したのが、当寄木の森」と伝えている。
現在、祭神は天穂日命・天夷鳥命・兄多毛比命の三柱を主神に、菅原道真公を始め一一柱を相殿に奉斎している。道真公については、三男道武が全国行脚の途次、当社に参詣、持参の菅原像を再拝して社の牛寅の方向に祀り、松・梅・桜を植えたという古記録があり、「松ノ木ヶ谷」「梅ノ木ヶ谷」「三本桜」の地名が現存している。
当社には石棒があり、社記に「当社の神体は(以前)一個の石であった。長さ七寸(二三センチメートル)ほどの石棒の断片で、上半分は出雲大社に、下半分は当社に天穂日命が持参されたもの」とある。
大宝二年の棟札のほかに、「正安三歳辛丑三月再開 武蔵入間郡宮寺郷入間重太度利宮寺中」とある鳥居棟札(七〇センチメートル)も保存され、古社であることを物語っている。
明治二年、出雲祝神社と社名を一定し、同五年に村社となる。(「埼玉の神社」より)
出雲祝神社所蔵の文化財
- 重闢茶場碑
出雲祝神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿