亀井神社。寛弘3年に白鬚神社と称して創建
亀井神社の概要
亀井神社は、狭山市下奥富にある亀井神社です。亀井神社は、寛弘3年(1006)に白鬚神社と称して創建したといい、廣福寺が別当を勤めていたといいます。明治維新後、廣福寺29世櫛笥亮蜂が、坂戸善能寺より大字善能寺字内手の笠山神社を譲り受け、更に相原新田字西河原の八雲神社を合祀、亀井神社と改称したといいます。
社号 | 亀井神社 |
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祭神 | 猿田彦命 |
相殿 | - |
境内社 | 八雲神社、猿田彦命、倉稲魂命、蚕影山大権現 |
住所 | 狭山市下奥富1465 |
祭日 | - |
備考 | - |
亀井神社の由緒
亀井神社は、寛弘3年(1006)に白鬚神社と称して創建したといい、廣福寺が別当を勤めていたといいます。明治維新後、廣福寺29世櫛笥亮蜂が、坂戸善能寺より大字善能寺字内手の笠山神社を譲り受け、更に相原新田字西河原の八雲神社を合祀、亀井神社と改称したといいます。
新編武蔵風土記稿による亀井神社の由緒
(下奥富村)白髭社
小名大鷲亀井邊の産神なり、廣福寺の持なり。(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による亀井神社の由緒
亀井神社(狭山市下奥富一四六五)下奥富字辨天通
鎮座地下奥富は市の北部、入間川左岸に位置し、川越市藤倉及び増形と境を接する。室町時代より記録に見える奥富郷が戦国期に上と下に分村して成立した。
当社は本来、白髭神社と号し、寛弘三年(一〇〇六)三月一七日の創立と伝え、現本殿は、天保三年三月の改修である。なお、内陣には「奉寄附自髭大神宮 正徳四年二月吉祥日 武州入間郡下奥富村 福宥 廣福寺」と裏書のある空の厨子を保存している。
『風土記稿』に「白髪社 小名大鷺亀井の産神なり、広福寺の持なり」とあり、天台宗広福寺が管理に当たっていた。
明治初めの神仏分離以降も寺の管理のまま放置された形となっていた。このような状況の中で、いわゆる一村一社制がしかれ、広福寺の櫛笥亮蜂住職が入西村(現坂戸市の北西部)の善能寺住職と別懇の間柄であったことから、明治三九年に日西村の各社が合祀されるに際し、数社あった村社のうちの一社である大字善能寺字内手の笠山神社を譲り受けることとなり、併せて、下奥富村大字相原新田字西河原の八雲神社を合祀した。同時に、当社は寺の管理を離れて村社となり、社号を地名から亀井神社と改めた。祭神は、清寧天皇・猿田彦命・火産霊神・息津比古神・息津比賣神・素戔嗚命である。
その後、祀職は、上奥富の梅宮神社社家の梅田家が務めている。(「埼玉の神社」より)
境内掲示による亀井神社の由緒
武蔵風土記に白鬚神社小名亀井邊の産神なり。
もと産土神白鬚神社と称し、本殿の創立は一条天皇の御代、寛弘三年三月十七日(一〇〇六)と記されている。
その後天保三年(一八三二)壬申三月社殿を改修し明治四年神仏分離令の後、広福寺より分離して祀られる。
更に広福寺二十九世住職が入間郡入西村善能寺住職と別懇の関係にあったことから村社の資格ある笠山神社祭神・火産霊命、奥津比古命、奥津比賣命の三社を譲り受け、同時に柏原新田の八雲神社祭神、素戔嗚尊の五柱を合祀して、地区の管理に変えました。
そして地名より亀井神社と改称することを明治十八年県に申請すると同時に覆殿三坪、拝殿六坪、社務所十二坪等神社を再築し明治四十年村社に昇格した。(奥富地区ふるさとづくり実行委員会掲示より)
亀井神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿