圓照寺。入間市野田にある真言宗智山派寺院

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圓照寺。加治氏の菩提寺、武蔵野三十三観音霊場

圓照寺の概要

真言宗智山派寺院の圓照寺は、光明山正覺院と号します。圓照寺の創建年代等は不詳ながら、加治氏の菩提寺で建長6年(1254)銘の板碑などが残されているといい、江戸期には寺領15石の御朱印状を拝領していたといいます。武蔵野三十三観音霊場22番、武蔵野七福神の弁財天、関東八十八ヶ所霊場73番、高麗三十三ヶ所霊場11番(旧善導寺)、奥多摩新四国霊場八十八ヶ所58番、武州八十八所霊場80番です。

圓照寺
圓照寺の概要
山号 光明山
院号 正覺院
寺号 圓照寺
住所 入間市野田158
宗派 真言宗智山派
葬儀・墓地 -
備考 -



圓照寺の縁起

圓照寺の創建年代等は不詳ながら、加治氏の菩提寺で建長6年(1254)銘の板碑などが残されているといい、江戸期には寺領15石の御朱印状を拝領していたといいます。

新編武蔵風土記稿による圓照寺の縁起

(野田村)圓照寺
寺領十五石の御朱印を賜ふ、光明山正覺院と號す、新義眞言宗、新堀村聖天院末なり、本尊阿彌陀を安ず、行基の作と云、開基開山詳ならず、古刹にして古き文書などもありしが、先年檀家と争論の事ありて焚捨しと云傳ふ、本堂の後に青石の古碑あり、長四五尺もしくは五六尺、加治氏の墳墓なるよし云傳ふ、古碑の文左に載るもの八基、毎基年號もて分て見べし。
建長六年甲寅五月十六日孝子等敬白
康元元年丙辰十一月廿三日比丘尼妙證造立之、孝子左門尉丹治泰家敬白、
元弘三年癸酉五月廿二日道峯禅門、乾坤無卓孤節地、只喜人空法旦空、珍重大元三尺劔、電光影裏折春風。
横呑十盧、天遥地遠、竪亘三際、山深水寒、無影樹下風細々、瑠璃殿上月團々、頑然獨露不磨勢、當與子孫萬古看、于時嘉元三年乙巳八月二日孝子等敬白、
文永七年庚午正月十三日、右志者爲丹治泰家・丹治宗泰、孝子丹治氏敬白、
長享三年巳酉八月十六日修記禅門、
應安元年戊申九月五日、右志趣者爲性持大禅尼、施主敬白、
爲慈母浄之大師所立虔 營逆善最上之惠、業以祈當来佛果之旨因者也、文和三年八月十五日、孝子加治文吾守守季敬白
不動堂。 (新編武蔵風土記稿より)


圓照寺所蔵の文化財

  • 胎蔵界大日三尊種子板碑(国指定文化財)
  • 円照寺不動堂付棟札(入間市指定有形文化財)

円照寺不動堂付棟札

この不動堂は、棟札によると安永八年(一七七九)に永田村(現飯能市)の宮大工細田源左衛門栄貞により再建されたものである。細田は黒須にある春日神社本殿の建築も手がけた記録が残っている。
構造形式は一重の三間四面堂である。正面が北であるため、「北向き不動堂」とも呼ばれる。寄棟造りの屋根は、もとは茅葺であったが瓦に葺きかえられ、現在は銅板葺である。
軒を支える垂木を放射状に配置した扇垂木の手法や正面の赤い扉が桟唐戸である点は禅宗様、側面の扉は舞良戸で柱の上にのみ組物を配する点は和様と、異なる様式を自由に組み合わせている。部材の随所に施された鳥や花などの彫刻は、江戸時代以降の寺社建築に見られる特徴である。このように、近世寺院建築の特徴をよく備えており、中世建築の禅宗様を今に伝える市内の高倉寺観音堂と比較して見ると興味深い。(入間市教育委員会・入間市文化財保護審議委員会掲示より)

圓照寺の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿