高麗山聖天院勝楽寺。高麗王若光の菩提、勝楽創建
聖天院勝楽寺の概要
真言宗智山派寺院の聖天院は、高麗山勝楽寺と号します。当地を開拓して亡くなった高麗王若光の菩提を弔うため、その侍念僧勝楽が751年(天平勝宝3年)創建、高麗王若光の守護仏聖天像(歓喜天)を本尊としたと伝えられます。その後僧秀海が法相宗から真言宗に改めて中興、江戸時代には54ヶ寺の末寺を擁し、15石の朱印状を拝領していました。文応2年(1261)銘の銅鐘や鰐口など数多くの文化財を所蔵しています。武蔵野三十三観音霊場26番、武州八十八所霊場88番です。
山号 | 高麗山 |
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院号 | 聖天院 |
寺号 | 勝楽寺 |
本尊 | 不動明王 |
住所 | 日高市新堀990-1 |
宗派 | 真言宗智山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
聖天院勝楽寺の縁起
聖天院勝楽寺は、当地を開拓して亡くなった高麗王若光の菩提を弔うため、その侍念僧勝楽が751年(天平勝宝3年)創建、高麗王若光の守護仏聖天像(歓喜天)を本尊としたと伝えられます。その後僧秀海が法相宗から真言宗に改めて中興、江戸時代には54ヶ寺の末寺を擁し、15石の朱印状を拝領していました。
新編武蔵風土記稿による聖天院の縁起
聖天院
高麗山勝楽寺と号す。新義真言宗、山城国醍醐松橋無量寿院末なり。天正19年寺領15石の御朱印を賜ふ。当寺古は大寺なりしといへど、寛永年間回祿の災にかかりて、什寶古籍ことごとく烏有となりて、草創の事実年代等総てしるべきものなし。但し今寺寶とする文応2年の鐘銘に当寺号を載たれば古き起立なることしるべし。中興開山僧秀海示寂の年月詳ならず。此僧の時より無量寿院の末となり、今に至て41世相承ずと云。本尊不動を安ず。この腹内に安ずる不動は立像にして、長2寸5分。弘法大師の作なりと云、門末すべて54ヶ寺あり。古は寺地今の門前畑のあたりにありしを、寛永の頃今の地に移せしよし。本堂の内に高麗山と云扁額をかけり。
寺寶
不動画像一幅。土佐庄二郎昌光筆。
金胎両部曼荼羅二幅。
古鐘一口。径1尺5寸3分、火災に罹りし故破裂せり。款文の銘あり、其文は左のごとし。
武州高麗勝楽寺。
奉鋳鐘長2尺7寸。諸行無常、是生滅法、生滅滅己、寂滅為楽、
文応2年3月日
大檀那比丘尼信阿弥陀佛、平定澄朝臣。大工物部季重
鰐口一口
径7寸8分、当寺に傳へし其故を詳にせず、銘文左のごとし。
久伊豆御寶前鰐口、願主衛門五郎、
武州崎西郡鬼窪郷佐那賀谷村
応仁2年11月9日、大工渋江満五郎
本堂。方丈。庫裡。棲門。長屋門。鐘楼堂、鐘は元禄中の鋳造なり。
歓喜天一体。高麗国より伝来する所と云。秘仏とす。本地十一面観音は弘法大師の作なり。本堂の後の方に安置せり。
阿弥陀堂。弥陀は立像にて長2尺7寸ばかり。行基の作也。
釈迦堂。佛経を蔵して置くゆへ、経堂とも唱ふ。
高麗王塔。五輪にして墓石の四面に佛像を刻したれど、石面分明ならず、総高さ6尺5寸、其石方面1尺6寸5分。此石塔の前に池あり、広さ15歩許、土人高麗殿の池と云。又それより少く東によりて井あり。径6尺許、これも高麗殿の井と称せり。
古碑2基。
惣門入口の左右にあり。右は正応2己丑6月日、左は寛元2甲辰10月日と彫れり。何人の碑なるやつまびらかにせず。
金蓮坊廃迹。往古聖天院の坊舎なりしと云、同寺の前なる畑中にあり。
梅仙坊廃迹。是も聖天院の坊舎なりしと云、同寺より西の方なり。丘上にあり、此余聖天院坊舎の名跡は、高岡村の小名にも見えたり。(新編武蔵風土記稿より)
日高市掲示による聖天院の縁起
聖天院の由来
続日本紀によれば、今から1,300年前高句麗滅亡によってわが国に渡来した高句麗人のうち甲斐、駿河、相模、上総、下総、常陸、下野7ヶ国の高句麗人1,799人を716年(霊亀2年)に武蔵国に移し、高麗郡を置きました。現在の日高市は、高麗郡の中心をなした地域と考えられ、1,889年(明治29年)まで高麗郡でした。
高麗王若光は高麗郡の長として、広野を開き産業を興し民生を安定し大いに治績を治めました。
勝楽寺は若光が亡くなったあと、侍念僧勝楽が若光の菩提を祈る為に751年(天平勝宝3年)に建立しました。若光の三男聖雲と孫の弘仁が勝楽の遺志を継ぎ、若光の守護仏聖天像(歓喜天)を本尊としました。
その後開山以来の法相宗を真言宗に改め、1,580年(天正8年)には本尊を不動明王にしました。当代までに実に1,250年間絶えることなく継承されています。
2000年(平成12年)には、山腹に新本堂を建立し、同時期に在日韓民族無縁の慰霊塔を建立されました。(日高市掲示より)
聖天院勝楽寺のもと末寺
聖天院勝楽寺は、新編武蔵風土記稿によると門末54ヶ寺を擁していたとあり、多くは高麗郡にあります。
日高市のもと聖天院勝楽寺末寺
飯能市のもと聖天院勝楽寺末寺
聖天院勝楽寺所蔵の文化財
- 銅鐘一口(国指定重要文化財)
- 聖天院応仁鰐口一口(県指定有形文化財)
- 徳川将軍歴代寺領寄進状(日高市指定有形文化財)
- 聖天院山門(日高市指定有形文化財)
- 木造不動明王及び両脇侍像3体(日高市指定有形文化財)
- 木造観音勢至菩薩両立像(日高市指定有形文化財)
- 聖天院元禄四年銅鐘(日高市指定有形文化財)
- 聖天院阿弥陀堂(日高市指定有形文化財)
- 高麗王若光の墓(日高市指定史跡)
銅鐘一口
銅鐘一口、昭和37年2月3日指定
総高81.2cm、口径45cm
この銅鐘は信阿弥、平定澄が、鎌倉各地に名鐘を残した物部季重に造らせて、文応2年(1261)に勝楽寺(聖天院)に奉納したものである。上帯に雲、下帯に唐草文を繊細に鋳出し、全体の姿も優美である。また文応2年の鋳造銘は聖天院が古刹であることを証している。(日高市掲示より)
聖天院応仁鰐口一口
聖天院応仁鰐口一口、昭和29年2月4日指定
直径23cm
この鰐口は、衛門五郎が願主となり、応仁2年(1468)に渋江満五郎に作らせて、鬼窪郷佐那賀谷村(現南埼玉郡白岡町実ヶ谷)の久伊豆神社に奉納し、やがて当院に蔵されるようになったものである。
渋江は、現岩槻市の一部で、中世まで渋江鋳物師と呼ばれる集団が居住していた。満五郎もその一人であろう。特徴ある両耳と美しい撞座を持ち、全体の均整もよくとれている。日高市掲示より)
聖天院勝楽寺の周辺図