三覚院。武蔵国八十八ヶ所霊場
三覚院の概要
真言宗豊山派寺院の三覚院は、青柳山と号します。三覚院は、慶長10年(1605)頃に俊賢法印が妙見山三蔵院と称して開山、明治41年東覚寺を合寺、妙見山薬王寺を移管、三覚院と改称したといいます。武蔵国八十八ヶ所霊場11、12番です。
山号 | 青柳山 |
---|---|
院号 | 三覚院 |
寺号 | - |
本尊 | 不動明王像 |
住所 | 草加市青柳4-27-12 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
三覚院の縁起
三覚院は、慶長10年(1605)頃に俊賢法印が妙見山三蔵院と称して開山、明治41年東覚寺を合寺、妙見山薬王寺を移管、三覚院と改称したといいます。
新編武蔵風土記稿による三覚院の縁起
(青柳村)三蔵院
新義真言宗、柿木村東漸院末、妙見山と號す、本尊不動を安ず
(青柳村)東覚寺
同末にて、本尊不動を安ず
稲荷社(新編武蔵風土記稿より)
草加市教育委員会掲示による三覚院の縁起
三覚院は新義真言宗豊山派に属し、本山は奈良の長谷寺である。昔は三蔵院と称し、「武蔵国郡村誌」には、慶長十年(一六〇五)ころの創建で、開山は俊賢法印と記されている。
明治四十一年十二月、東覚寺と併合して青柳山三蔵院と改称した。
今の本堂は文化八年(一八一一)に建立されたものと伝えられ、間口十六・二メートル、奥行十・八メートル、欅材を豊富に使った豪華な建物である。
向拝部分には、後藤桂林の彫刻を配し、本堂に入ると、格天井に四季の花などを描いた板絵が三十枚はめられている。そのうちの二十五枚は、江戸琳派の大家酒井抱一の養子の鶯甫によるもので、中央の格天井枠には文政十三年(一八三〇)の寄進紀年銘が残っている。画風は、江戸琳派の系統をひく装飾画風であり、大胆な図様で同派特有の諸点を発揮した構想を持つものである。この板絵に十五枚は、昭和五十二年三月に埼玉県有形文化財の指定を受けている。(草加市教育委員会掲示より)
三覚院所蔵の文化財
- 三覚院本堂格間板絵二十五面
三覚院本堂格間板絵二十五面
青柳山三覚院は、「新編武蔵風土記稿」によれば、もと妙見山三蔵院と号し、賢信法師を開山として慶長十年(一六〇五)頃創設したと伝える。
明治四十一年(一九〇八)に近隣の東覚寺と合して三覚院と改称した。
当院本堂の格天井には合計三十面の板絵が描かれており、そのうち二十五面に「鶯甫」、他の五面には「隆甫」の朱印が見られる。
鶯甫は尾形光琳の流れをくむ江戸琳派の大家酒井抱一の養子で(養子となったのは文政元年<一八一八>十歳の時という)、
この鶯甫印をもつ板絵も同派の装飾画風の特徴を随所に見せている。
画材は「雁」を描いた一面のほかは、すべて四季の草木画で、線描きした輪郭の中に濃彩を施す堀塗法を多用し、絵具や墨のにじみを利用した没骨法や垂らし込みの技法を併用して変化をつけている。
制作年代については、中央の格天井枠に、
奉寄進天井一間、文政十三寅年十一月
金五両為一切聖霊菩提也
施主 三谷篠宮源蔵
当院代 智燈真快という銘文があり、文政十三年(一八三〇)十一月に、三谷(旧青柳村)の篠宮源蔵なる人物が天井を寄進し、板絵もその時までには描かれていたことがわかる。
江戸琳派の作風を示す、まとまった格間絵として、貴重な作例である。(埼玉県・草加市教育委員会、青柳山三覚院掲示よより)
三覚院の周辺図