萩日吉神社。蘇我稲目が欽明天皇6年に創建
萩日吉神社の概要
萩日吉神社は、比企郡ときがわ町西平にある神社です。萩日吉神社は、(蘇我馬子の父)蘇我稲目により欽明天皇6年(544)創建されたと伝えられ、萩明神と称していたといいます。平安時代に入り萩日吉山王宮に改称、奥州藤原泰衡追討に際し源頼朝が慈光寺へ戦勝祈願した後には、北条政子より当社へ年貢免除地を寄進されています。明治維新後、神仏分離令により萩日吉神社と改称し村社に列格、明治40年には地内の4社を合祀、昭和19年郷社に昇格していました。当社祭礼で奉納される流鏑馬神事は、天福元年(1233)木曾義仲の家臣七家によって奉納されたことが始まりと伝えられ、神楽と共に埼玉県無形民俗文化財に指定されています。
社号 | 萩日吉神社 |
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祭神 | 大山咋命、国常立尊、天忍穂耳尊、国狭槌尊、伊弉冉命、瓊瓊杵尊、惶根尊 |
相殿 | - |
境内社 | 萩明神社、御井社、釣取社、負櫃社・風神社・菰神社・金精大明神合殿、天神社、八坂社 |
祭日 | 流鏑馬(例大祭)1月15・16日、太々神楽4月26・27日、八坂祭7月14・15・16日、古式獅子舞10月17日 |
住所 | 比企郡ときがわ町西平1198 |
備考 | - |
萩日吉神社の由緒
萩日吉神社は、(蘇我馬子の父)蘇我稲目により欽明天皇6年(544)創建されたと伝えられ、萩明神と称していたといいます。平安時代に入り慈光寺が天台宗寺院となると、慈光寺一山鎮護のために日吉大社を勧請、当社に合祀し、萩日吉山王宮に改称、奥州藤原泰衡追討に際し源頼朝が慈光寺へ戦勝祈願した後には、北条政子より当社へ年貢免除地を寄進されています。明治維新後、神仏分離令により萩日吉神社と改称し村社に列格、明治40年には字宮平無格社熊野神社・字森戸無格社八坂神社・字後野無格社富士獄神社・字森戸無格社神明社の4社を合祀、昭和19年郷社に昇格していました。
境内掲示による萩日吉神社の由緒
萩日吉神社の由来
「平の山王様」「萩の山王様」と親しまれるこの萩日吉神社は、社伝によると欽明天皇六年(五四四)十二月に蘇我稲目により創建されたと伝えられます。当初は、萩明神と称されましたが、平安時代初期に慈光寺一山鎮護のため、近江国(現滋賀県)比叡山麓にある坂本の日吉大社を勧請合祀して、萩日吉山王宮に改称したといわれています。源頼朝は文治五年(一一八九)六月、奥州の藤原泰衡追討に際し、慈光寺に戦勝祈願しその宿願成就の後、慈光寺へ田畑千二百町歩を寄進しましたが、同時に当社へも御台北条政子の名により田畑一町七畝を寄進しています。以後社殿の造営が行われて別格の社となり、元禄十年(一六九七)以降は牧野家の崇敬が厚く、『風土記稿』には「山王社 村の鎮守なり」と記されています。明治元年(一八六八)の神仏分離令により、現在の神社名「萩日吉神社」となりました。
当社の本殿は、村内神社の中では最大規模であり、堂々とした荘厳な建物です。そのほか境内には境内社の八坂神社や神楽殿などがありますが、これらの建物を包み込むように広がる社叢は、平成三年三月に県指定天然記念物に指定されています。神社入口には御神木の児持杉もあり、この杉に祈願すれば子どもが授かるといわれ、近郷近在の人々より厚く信仰されています。また、当社の使いである猿にちなみ、戦前まで流鏑馬祭りの日に「納め猿」という木彫りの猿像を神社の参道で売っていましたが、この納め猿とともに渡す縫い針も病気の治癒に効能ありと言われていました。現在、一月の例大祭の日に本殿において「納め猿」のみが有償で求められます。(都幾川村教育委員会掲示より)
新編武蔵風土記稿による萩日吉神社の由緒
(平村)
山王社
村の鎮守なり、當社は帶刀先生義賢討れし後、その臣下の子孫なる田中村の市川氏、馬場村の馬場氏、瀬戸村の荻久保氏、腰越村の加藤等の、先祖まつりて鎮守とせりと、山王の神像を祀りし板あり、年代は記さざれど舊きものなるべし、されど此板を神體なりと傳ふるは覺束なし、天福元年十一月廿六日始て神事を行ひしより、今も流鏑馬をもて例祭となせりと、社傳にいへり、
末社。天神社、十善神社
神主吉田上總。近来神主となりしものにて、元は社守なりしよし、もとより系圖等は傳へず、(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による萩日吉神社の由緒
萩日吉神社<都幾川村西平一一九八(西平字宮平)>
都幾川上流の山間部に位置する西平は、「首都圏の奥座敷」に例えられる美しい自然環境に恵まれた場所である。その地内には、天武天皇二年(六七三)創建と伝えられる天台宗の古刹慈光寺や、八〇〇年も続く禅道場の霊山院、そして流鏑馬で名高い当社など、長い歴史を持つ社寺が集中しており、古くから聖地として知られてきた。
社記によれば、当社は、人皇第二九代欽明天皇六年(五四四)十一月、大臣正二位蘇我稲目宿禰によって創建されたと伝えられ、当時は萩明神と称したが、平安時代初期に天台宗関東別院となった慈光寺一山の鎮護のため、近江国(現滋賀県)比叡山から日吉大神を勧請合祀し、萩日吉山王宮と改称したという。更に、『平村弓立山蟇目の由来』と称する伝書によれば、天慶八年(九四五)に武蔵国司源経基が慈光寺一山の四至境界を定め、神境龍神山にて蟇目の秘法を習得させ、以来、当山を弓立山と呼ぶようになり、当社の祭礼には蟇目の神事に倣って四方に鏑矢を放つようになったと伝える。
また、源頼朝は慈光寺一山を深く尊信帰依し、文治五年(一一八九)六月には奥州藤原泰衡追討に際し、慈光寺別当厳耀をして戦勝を祈願させ、建久二年(一一九一)に祈祷成就の奉賽に慈光寺を再興し領地などを寄進した。その時、頼朝の御台政子は御供免として田畑一町七畝を当社に寄進し、以後、萩日吉山王宮は不入の地になったという。
江戸時代、当社のある平村は、はじめ幕府の直轄地であったが、元禄十年(一六九七)には牧野家の領有するところとなった。牧野嘉成は当社を深く尊崇し、神前に御供米奉献などの奉賛をなし、以後累代崇敬を重ねた。一方、『風土記稿』では、当社は「山王社」として記載され、割注には村の鎮守であることや流鏑馬の由来などが載っているものの、由緒や慈光寺との関係については全く触れられていない。
明治元年十一月、神仏分離の布告により、当社では社号を現行の萩日吉神社に改めた。更に、明治四十年三月には政府の合祀政策に従って字宮平無格社熊野神社・字森戸無格社八坂神社・字後野無格社富士獄神社・字森戸無格社神明社の四社を合祀した。社格は、当初は村社であったが、昭和十九年十二月二十八日付で郷社に昇格した。
(神職家に関する箇所省略)
現在の社殿は、寛政五年(一七九三)正月に、地元の平村はじめ近在の氏子・崇敬者の浄財を寄せて再建したもので、創建以来三回目の造営と伝え、本殿の唐破風や向拝には極彩色の彫刻が施されている。また、境内から出土した鎌倉時代の古瓦、保存されている南北朝時代の様式を伝えた花形彫刻のある蟇股(重要美術品)や本殿の一扉などから察すると、それ以前の社殿も相当な規模の荘厳な造りであったことが推測される。内陣には、蘇我稲目宿禰作と伝えられる國常立尊座像、由緒不詳の猿神座像と猿田彦面、享保二年(一七一七)八月に当所の関口家が奉納した神像、裏面に大同年間(八〇六~一〇)の刻銘のある猿神像などが神宝として納められている。(「埼玉の神社」より)
萩日吉神社所蔵の文化財
- 萩日吉神社の流鏑馬(埼玉県指定民俗文化財)
- 萩日吉神社の神楽(埼玉県指定民俗文化財)
- 萩日吉神社社叢(埼玉県指定天然記念物)
- ささら獅子舞(ときがわ町指定無形民俗文化財)
- 児持杉(ときがわ町指定天然記念物)
萩日吉神社の祭り
萩日吉神社ではこれまで、一月十五日、十六日に例大祭、四月二十六日に春季大祭、十月十七日に秋季大祭の行事が行われてきました。
一月の例大祭には、流鏑馬祭りと神楽が奉納されます。流鏑馬は馬を馳せながら弓で的を射る行事で、中世武士の間で盛んに行われましたが、県内では現在毛呂山町出雲伊波比神社と当社の二か所のみとなり、その貴重さが認められて平成十七年三月に県指定民俗文化財に指定されました。当社の流鏑馬は天福元年(一二三三)に木曾義仲の家臣七苗によって奉納されたことが始まりと伝えられています。その七苗とは、明覚郷の荻窪、馬場、市川氏、大河郷(現小川町)の横川、加藤、伊藤、小林氏です。現在は、三年に一度の一月第三日曜日、それぞれの郷から流鏑馬が奉納されています。
神楽は、昭和五十二年に県指定無形民俗文化財に指定されました。一月例大祭には小神楽が、四月二十九日の春季大祭には太々神楽が神楽殿で舞われ、その厳かな調べが神社の森に木霊します。
境内社の八坂神社の祭礼は、七月十五日に近い日曜日に行われます。神輿の渡御があり、氏子各組より担ぎ番、行事、世話方が選ばれ行事を執り行います。この祭礼のとき、西平・宿地区では屋台囃子が奏でられます。
また、西平・上サ地区氏子の行事として、十月十七日に近い日曜日に、ささら獅子舞が奉納されます。屋台囃子もささら獅子舞も、それぞれ村指定無形民俗文化財に指定されています。(都幾川村教育委員会掲示より)
児持杉
男杉と女杉があり男杉の根回り六、四七米で、三本に幹が分れている。女杉は根回り八、八九米あり二十四本に分れている。
二本とも樹高が約四十米あり樹令はおよそ八百年といわれる。なおこの杉は古来より二樹を祈念する時は幼児を授けられるとの伝説あり、遠近男女の信仰があつい。(都幾川村教育委員会掲示より)
萩日吉神社の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)