伏見山成勝寺|関東大震災に被災、昭和3年築地から移転
成勝寺の概要
浄土真宗本願寺派寺院の成勝寺は、伏見山と号します。成勝寺は、崇徳天皇の御願寺として覚法法印が保延5年(1139年)に真言宗寺院として創建、天皇の御願寺が京都東校白河に六ヶ寺あった六勝寺の一つと称されていたといいます。蓮如上人の頃(1460年代)に浄土真宗に改宗、江戸時代に入り江戸へ移転、本願寺東京別院(築地本願寺)の寺中寺58ヶ寺の一つであったといいます。関東大震災に被災、昭和3年(1928)当地へ移転したといいます。
山号 | 伏見山 |
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院号 | - |
寺号 | 成勝寺 |
住所 | 世田谷区宮坂2-24-5 |
本尊 | 阿弥陀如来像 |
宗派 | 浄土真宗本願寺派 |
葬儀・墓地 | 成勝寺会館 |
備考 | - |
成勝寺の縁起
成勝寺は、崇徳天皇の御願寺として覚法法印が保延5年(1139年)に真言宗寺院として創建、天皇の御願寺が京都東校白河に六ヶ寺あった六勝寺の一つと称されていたといいます。蓮如上人の頃(1460年代)に浄土真宗に改宗、江戸時代に入り江戸へ移転、本願寺東京別院(築地本願寺)の寺中寺58ヶ寺の一つであったといいます。関東大震災に被災、昭和3年(1928)当地へ移転したといいます。
境内掲示による成勝寺の縁起
伏見山成勝寺沿革
平安時代後期、京都の東校白河の地に、天皇の御願寺としての寺院が六か寺あり、いずれも寺号に「勝」の字が付いたことから「六勝寺」と呼ばれた。成勝寺はその六勝寺のひとつで、1139年(保延5)崇徳天皇の御願寺として創建、真言宗寺院として仁和寺・四世・覚法法印により落慶供養が行われた。
鎌倉時代、1219年(承久元年)に焼失し、その後、白河の地から伏見へ移ったと考えられる。
南北朝室町時代、応仁の乱等で、他の六勝寺は廃寺となる。
本願寺八世の蓮如上人の頃(1460年代)、浄土真宗に改宗する。
江戸時代、1657年江戸大火(通称振袖火事)で海辺御坊(現・築地本願寺)と共に日本橋浜町から、築地へと移り中核寺院として活躍。関東大震災後、1928年(昭和3年)世田谷現在地に移る。京都平安神宮近く岡崎公園に「岡崎成勝寺町」として今に残す。(境内掲示より)
せたがや社寺と史跡による成勝寺の縁起
浄土真宗本願寺派に属し、伏見山成勝寺と称する。本尊は阿禰陀如来である。開基検校覚法、仁平3年(1153)12月6日没。
当寺は藤原全盛期時代に京都岡崎に建立せられた六勝寺の一つで、保延5年(1139)10月崇徳天皇の御願寺として初代検校覚法が開基して、現在の左京区岡崎成勝寺町付近に建立したが、承久の乱、応仁の乱などに焼失し後京都の伏見に再建せられ、伏見山成勝寺と称し、真言宗であったと伝える。その後真言宗本願寺派に改宗し、檀信徒の一部とともに江戸に転出した。江戸別院が浅草横山町に創建された頃、この寺も現町へ転入した。明暦3年(1657) 1月18日の振袖火事は本郷の本妙寺lこ火を発して、江戸別院外58カ寺院は全部焼失した。そのため海辺を埋立ててこれらの寺院は全部集合創建した。「築地本願寺還座三百年史」によると、元禄8年(1695)、 享保3年(1718)、宝暦6年(1756)、天明4年(1784) 、文政12年(1829)など6回も大火に襲われついに大正12年9月、関東大震災にあい寺院全部焼失した。そのうち10カ寺院を築地に残し、48カ寺院は比較的都心を離れた地域に分散することとなり、世田谷区へは13寺院すなわち、成勝寺・妙善寺・浄徳寺・浄立寺・常栄寺・正法寺・勝林寺・延重寺・実相寺・萬福寺・善宗寺・善行寺・常念寺などが移転した。当寺は昭和3年に現在地へ建立し、昭和36年に本堂を鉄筋コンクリート建lこ改造した。境内435坪(1435.5m2)、本堂36坪(113.8m2)、墓地462坪(1524.6m2)ある。杉山家墓地に俳人芭蕉の高足の1人と知られている杉山杉風の墓碑あり、表面下に杉風の像彫刻、上に遺詠が彫ってある。
痩がほに団扇をかざし絶しいき
杉風は享保17年(1732)6月13日没、86歳、本名杉山市衛、墓碑の裏lこ履歴の記事あり、東33カ国の俳諧奉行であったとあり、当時小田原町(中央区)に居住し魚問屋を営んでいたという。(せたがや社寺と史跡より)
成勝寺の周辺図