志演尊空神社|志演神社と、尊空神社とを昭和22年合併
志演尊空神社の概要
志演尊空神社は、江東区北砂にある神社です。志演尊空神社は、志演神社と、尊空神社とを昭和22年合併して志演尊空神社となりました。志演神社は、当地八右衛門新田村を開拓した際に菅原長寛が稲荷神を勧請して創建したもので、もと深川稲荷と称していましたが、徳川綱吉が鷹狩りの際に志演神社と命名されといわれています。
社号 | 志演尊空神社 |
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祭神 | 倉稲魂命、須佐之男命、伊邪那美命、尊空親王、手力男命、 |
境内社 | - |
住所 | 江東区北砂2-1-37 |
備考 | 尊空親王 |
志演尊空神社の由緒
志演尊空神社は、志演神社と、尊空神社とを昭和22年合併して志演尊空神社となりました。志演神社は、当地八右衛門新田村を開拓した際に菅原長寛が稲荷神を勧請して創建したもので、もと深川稲荷と称していましたが、徳川綱吉が鷹狩りの際に志演神社と命名されといわれています。
新編武蔵風土記稿による志演尊空神社の由緒
(八右衛門新田)稲荷社
村の鎮守なり。
志演稲荷と号す。深川富川町利益院持。社南に石燈籠二基あり。銘に正保4年織田長好寄進と彫れり(新編武蔵風土記稿より)
境内掲示による志演尊空神社の由緒
寛永元年、深川郷唐島開発の際当地に訪れた菅原長寛が村民の要請を受けて稲荷大神を鎮座して深川稲荷と社号を称し、土地の氏神としてあがめた。 元禄年間、時の将軍徳川綱吉がお鷹狩りの途中で当社に参拝に立ち寄られ「民の志を演ぶる事殊勝なり」と賞して社名を志演神社と改名せられた。 又正徳2年の夏、当地に伝染病が流行し死者が多数に及んだ時、当社五代目別当、菅原快円が病魔退散と天下泰平、五穀成就を祈念して柴燈大護摩を焚いたとこと病は止まりこれによって毎年5月22日の祭礼を執行した。当時の人々は「ごまの稲荷」と当社を呼んだ。これは古文書「東の都歳時記」に日本の三護摩として記載されている。
尊空親王は伏見邦頼親王の御子にして寛文3年12月関東に下向、深川五本松にて隠棲される。
親王死去の後、村民その徳を敬慕して邸跡に小祠を建てて村の鎮守としてあがめ奉る。
その後松平伊豆守抱屋敷内に祠れる稲荷大神を社殿と共に村内に寄附され、社名を尊空稲荷神社と称した。
昭和20年3月9日の戦災により両者焼失。
昭和22年3月志演神社と尊空稲荷神社を合祀して社名を志演尊空神社と改名す。(境内掲示より)
「江東区の民俗城東編」による志演尊空神社の由緒
志演尊空神社
『城東区史稿』(昭和一七年)によれば、深川の郷唐島、八右衛門の西端十間川の東側に熊野吉野社があった。寛永元年(一六二四)、この地を開発するときに菅原長寛が里人の願いにより、稲荷の神を勧請し、熊野・吉野両神を合わせ祀り、土地毎産土神とし、社名を深川稲荷と称した。慶安三年(一六五〇)摂政関白一条兼遇の命により、美濃国主織田三五郎長好(織田信長の曾孫頼長の長子で兼遐公夫人の兄)は社頭再常に尽くされ、当時の棟札並びに寄付の石燈籠四基には深川稲荷の銘がある。元禄のころ、将軍綱吉が鷹狩りに来たとき、当社の御祭神について尋ねられ、社稜守護のため稲荷の大神を勧請している旨を伝えたところ、民の志を演ぶるところ殊勝なり、志演稲荷と上意があり、社号を志演稲荷と改称した。元禄八年(一六九五)に現在地に遷った。
『寛政重修諸家譜』巻第四九二によれば、確かに頼長の子供に三五郎長好がおり、妹は一条兼遐の室であることは確認できる。ただ、『岐阜市史』通史編近世によれば、岐阜城は関ケ原の合戦のときに破却され、岐阜には代官がおかれ、慶安三年のときは平野甚左衛門であった。
正徳二年(一七一二)の夏、この地一帯に疫病が流行し死亡する者が多く、時の別当快円法印が天下巷平、五穀成就のため社頭で柴燈護摩を修行し、疫病が止み、里人が安全なることを得た。それ以来吉例として毎年五月二二日に大護摩修行が恒例の神事となった。これにより、世人はこの社を降魔稲荷と称し、疫病除去の大神と崇めるようになったという。柴燈護摩は『東都歳時記』にも五月二二日深川砂村志演稲荷祭、柴燈護摩修行と出ており、江戸末まで続いたそうである。
昭和二〇年三月九日の戦災により焼失、昭和二二年三月尊空稲荷神社を合祀し、志演尊空神社と称した。(「江東区の民俗城東編」より)
合併した尊空神社の由緒
尊空稲荷神社(北砂2−165)
『南葛飾郡神社要覧』によれば、尊空親王は伏見宮邦頼親王の御子にして寛文一三年(一六七三)関東に下向、深川五本松に隠棲、亡くなった後、村民がその遺徳を敬慕して邸跡に小祠を建て村の鎮守とした。その後、松平伊豆守抱屋敷内に祀る稲荷大神を社殿とともに村内に寄付があり、尊空社を合祀し、尊空稲荷神社と称するという。『知恩院史』によれば、第三六世は尊空上人であり、尊空上人は伏見宮邦頼親王の御子で、慶息一八年(一六一三)に生まれ、霊厳上人(知恩院三二世)に入り得度し、増上寺学寮で平僧とともに修学し、明暦三年(一六五七)四五歳で台命住職し、六年在任し、故あって寛文三年(一六六三)に辞し、千葉来迎寺に退隠し、後に江戸本所霊山寺に閑居し、元禄元年(一六八八)に亡くなり、墓碑は知恩院七九世孝誉が華頂山上、墓域内に移したという。
『檀林本所霊山寺志』によれば、尊空大和尚は知恩院三六世として在職中に「裁断有誤是以退山辞職下向関東也将軍家賜隠棲之地閑居深川一萬坪」とある。『墨田区史』によれば、本所霊山寺は横川橋一丁目にあり、元禄元年(一六八八)に浅草から本所に移る。浄土宗関東十八檀林の一つであったという。『新編武蔵風土記稿』巻之二五によれば、久左衛門新田には松平伊豆守(三河吉田藩)の抱屋敷が寛政一〇年(一七九八)からあったという。昭和三一年に小名木川貨物駅の線路敷設のため志演神社に合併された。(「江東区の民俗城東編」より)
志演尊空神社所蔵の文化財
- 石造燈籠(明治39年在銘)一対(江東区登録文化財)
- 石造鳥居(昭和3年在銘)(江東区登録文化財)
- 燈籠(残欠)織田長好奉納一対(江東区登録文化財)
- 敷石二十四枚奉納碑大正3年在銘(江東区登録文化財)
志演尊空神社の周辺図