壱丁目愛宕神社。上尾市壱丁目の神社
壱丁目愛宕神社の概要
壱丁目愛宕神社は、上尾市壱丁目にある神社です。壱丁目愛宕神社の創建年代などは不詳ながら、当地名は「一町免とは中世の新補地頭の得分である免田」に由来するといい、宝暦8年(1758)には境内が除税地となっているといいます。
社号 | 愛宕神社 |
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祭神 | 軻遇突知命 |
相殿 | 素戔嗚尊 |
境内社 | 稲荷社、雷神社、天神社、八幡社、琴平社、八雲社 |
祭日 | 4月4日/8月24日 |
住所 | 上尾市壱丁目344 |
備考 | - |
壱丁目愛宕神社の由緒
壱丁目愛宕神社の創建年代などは不詳ながら、当地名は「一町免とは中世の新補地頭の得分である免田」に由来するといい、宝暦8年(1758)には境内が除税地となっているといいます。
新編武蔵風土記稿による壱丁目愛宕神社の由緒
(一町目村)
氷川社
村の鎮守なり、西光寺の持。
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愛宕社
村民の持。
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西光寺
新義真言宗、柏座村日乗院末、本尊千手観音を安せり。(新編武蔵風土記稿より)
「上尾の神社・寺院」による壱丁目愛宕神社の由緒
社伝によると、宝暦8年(1758)除地の証蹟あり、又明和4年(1767)2月吉辰奉納の古剣が存したとあるが現在は所在不明。神木の杉は樹令500年を超えると推定される。明治6年(1873)村社に列せられた。(「上尾の神社・寺院」より)
「埼玉の神社」による壱丁目愛宕神社の由緒
愛宕神社<上尾市壱丁目三四四(壱丁目字愛宕前)>
当地は『風土記稿』に「検地に大谷郷一町免とあり、則この地のことなり」とあるように、かつては大谷郷に属し、壱丁目は一丁免の転である。一町免とは中世の新補地頭の得分である免田を示すという。また、地内にはかつて宿次の小字名があり、昔松山(現吉見町)からの馬継のあった所と伝える。
当社は、境内の中でも一段高く盛土された所に鎮まる。境内の一角には樹齢五〇〇年を超えると推定される杉の神木がそびえる。社蔵の「村社存置に付上申書(写)」には、「由緒不詳トアルモ境内ニ繁茂シアル丈余ノ老杉ヨリ推測スレバ無論三百余年ヲ経過致シ居ルモノニハ非サルカト推考仕候尤モ宝暦八寅年(一七五八)除税地ニ相成候証蹟ト明和ニ亥年(一七六五)二月吉辰奉納ノ古釼トアリ」との記述が見える。また、『風土記稿』は一町目の神社について「氷川社 村の鎮守なり、西光寺の持、愛宕社 村民の持」と載せているが、明治初年の社格制定に際して、氷川社が無格社とされ、当社が村社に列せられた。その後、合祀政策に基づき、当社を向山の神明社へ合祀する命令が発せられたが、明治四十一年に社掌福田弥吉・氏子総代橋本桂介・松澤久五郎の三名が先の「上申書」を村役場に提出して合祀を免れた。本殿は小規模ながら、江戸中期の見世棚造りで貴重である。
なお、氷川社は既になく、跡地は大正製薬運動場の一部となった。(「埼玉の神社」より)
壱丁目愛宕神社所蔵の文化財
- 愛宕神社本殿(上尾市指定有形文化財)
愛宕神社本殿
愛宕神社の本殿は、江戸時代中期の貴重な建造物として、市の有形文化財に指定されている。
本殿の構造は、一間社流見世棚造であり、拝殿を兼ねる覆屋の中に納められている。見世棚造とは、身舎(本体)と前方の向拝柱との間に棚のような床が張られ、地覆(土台)が井桁に組まれている建築様式をいう。この様式は、小さな祠のような境内社などには見られるが本殿では珍しい。
建築年代を示す棟札は発見されていないが、本殿内部から宝暦五(1755)年の墨書のある布地が発見されており、社伝によると愛宕神社には、宝暦八(1758)年に除地(年貢諸役免除の特権が与えられた土地)の記録が残されている。これらのことと本殿の建築的特徴から、江戸中期の建築と考えられる。(上尾市教育委員会掲示より)
壱丁目愛宕神社の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」
- 「上尾の神社・寺院」(上尾市教育委員会)
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)