宮戸神社。重殿権現社として創建
宮戸神社の概要
宮戸神社は、朝霞市宮戸にある神社です。宮戸神社の創建年代は不詳ですが、宮戸村が上下に分村した元禄年間(1688-1704)以降に、本村(下宮戸)の蔵王権現社を分祀して重殿権現社として創建したのではないかといいます。明治6年村社に列格、宮戸字屋敷添の稲荷社と字厩尻の厳島社を明治40年境内社として合祀しています。
社号 | 宮戸神社 |
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祭神 | 面足尊・伊弉諾尊・伊弉冉尊・稲倉魂命・高良玉垂姫命 |
相殿 | - |
境内社 | 護国、辨天、天神宮、天満宮、白山、日王子、御嶽、神明、稲荷7柱 |
祭日 | - |
住所 | 朝霞市宮戸4-3-1 |
備考 | - |
宮戸神社の由緒
宮戸神社の創建年代は不詳ですが、中世に熊野信仰が高まった際に熊野社として創建したといい、宮戸村の鎮守社であったといいます。明治40年浜崎氷川神社に合祀されましたが、遥拝所として存続を計り、昭和十七年に宗岡村字袋の天津神社を大字宮戸の三柱神社遥拝所の地に迎え、翌十八年には宗岡村字下ノ谷の稲荷神社を天津神社に合祀したのを機に社号を宮戸神社に改め、村社に列格したといいます。昭和31年熊野神社の返還を受けた際に、宮戸地内から駒形神社が本殿に、日王子神社・白山神社・稲荷神社などが境内に合祀されたといいます。
新編武蔵風土記稿による宮戸神社の由緒
(宮戸村)
熊野社
除地、一段五畝、村の中央にあり、鎮座の年歴詳ならず、當所の惣鎮守なり、村内法蔵寺持。
駒形権現社
除地、一段一畝十五歩、字駒形にあり、本地正観音にして、垂迹は詳ならずと云、今或は高麗方権現ともかけり。是も法蔵寺持。
白山社
字溜田にあり、是も同寺の持
日之王子社
白山社の側にあり、本地は十一面観世音なり、同寺の持。
稲荷社
五小名像色宿・陣屋・大山・長塚等に散在す、これもみな法蔵寺の持。(新編武蔵風土記稿より)
境内掲示による宮戸神社の由緒
当神社は古くより熊野神社と呼ばれ宮戸地区の氏神様として信仰されてきた。
その後、天津神社・稲荷神社・高麗神社を合祀し、宮戸神社と改称。
御祭神は面足尊・伊弉諾尊・伊弉冉尊・稲倉魂命・高良玉垂姫命の五柱。
御神徳は家内安全・良縁成就・商売繁昌。
末社には護国神社・白山社・日王子社・神明社・水神社・天満宮・御嶽神社・稲荷社・石尊社と多数の社がお祭りされている。(境内掲示より)
「埼玉の神社」による宮戸神社の由緒
熊野三山に対する信仰は、中世には全周的な潮流として広く武士や民衆の間に広まった。その布教に当たったのが熊野の御師や先達で、彼らは在地の信者と師檀関係を結び、檀那(信者)のために祈祷し、巻数・撫物・お札などを配布した。これを檀那職という。檀那職の権利は譲渡や売買の対象とされ、その証文として檀那売券が生じた。
康正二年(一四五六)六月の檀那売券(潮崎稜威主文書)によれば先達の浄花坊宰相公が、熊野那智山の御師の廊之坊に新倉郡以下の自己の檀那職を銭五十貫目で売却したといい、室町中期には当地を含む新倉郡に熊野信仰が伝播していたことがわかる。また、文明十八年(一四八六)に武蔵に来た三井長吏三山並新熊野検校聖護院門跡道興が新倉郡を歴訪してから後、熊野信仰の勢力は著しく拡大された。
当社は『風土記稿』宮戸村の項に「熊野社一除地一段五畝、村の中央にあり、鎮座の年歴詳ならず、当所の惣鎮守なり、村内法蔵寺持」と載る。その創建の年代は明らかでないが、熊野信仰が当地を含む新倉郡の全域に浸透していく過程で、当社が勧請されたものと推測される。
別当の法蔵寺は薬王山仏眼寺と号する真言宗の寺院で、かつて薬師堂山と呼ばれる高台にあった堂宇を継承している。薬師堂山は一切経蔵の跡とされ、その付近からは経筒やその外容器、更には渡来新羅人のかかわりを思わせる地下式壙・陶製蔵骨器などが発見されている。
明治初年の神仏分離により別当から離れた当社は、古来宮戸村の鎮守であったことから村社に列せられた。しかし、明治四十年に当社は田島の村社神明社と共に浜崎の村社氷川神社に合祀され、三社の村社にちなんで三柱神社と命名された。こうして旧地に残された社殿は、三柱神社遥拝所の名目で存続することになった。旧地は地元で買い受け、更に遥拝所の維持方法として、これまでの内間木の渡船場が橋になったため、春秋二回これに出していた積立てをそのまま基本財産に繰り入れることを決定した。
昭和十六年の開戦により神社での戦時関係の行事が頻繁となり、その都度、遠距離にある合祀先の三柱神社まで行かねはならず不便を感じるようになった。このため、地元に新たに社殿を建設する計画がなされたが、神社として公認されない限り神職の奉仕も望めず、御霊代のない社では実体を伴わないとの理由から断念するに至った。折しも隣村の宗岡村(現志木市宗岡)の字袋と字下ノ谷では、いずれも狭除な境内を持つ無格社を祀っていたために合祀の対象となり、その回避策として今よりも広い境内地への移転が検討されていた。大字宮戸と字袋・字下ノ谷の三者の利害の一致がその後の協議を円滑に進めてい
くことになった。昭和十七年に宗岡村字袋の天津神社を大字宮戸の三柱神社遥拝所の地に迎え、翌十八年には宗岡村字下ノ谷の稲荷神社を天津神社に合祀したのを機に社号を宮戸神社に改め、村社に列した。大字宮戸は村社三柱神社の氏子であったため、この移転及び合祀に関しては浜崎の人たちの同意を得る必要があった。浜崎に対して、宮戸では宮戸神社を崇敬すると共に三柱神社も従来通り氏神として崇敬していく旨の協定を結び、移転願いに連署を求めた。また、字袋と字下ノ谷とは、従来通りの形で氏子として存続していくことを約した。
戦後の混乱もようやく収まった昭和三十一年、念願であった三柱神社からの熊野神社の返還を受け、名実共に再興を果たした。
この時、宮戸地内から駒形神社が本殿に、日王子神社・白山神社・稲荷神社などが境内に合祀された。駒形神社の旧地は宮戸町会館の敷地で、『風土記稿』に「駒形権現社、除地一段一畝十五歩、字駒形にあり、本地正観音にして垂迹は詳ならずと云、今或は高麗方権現ともかけり、是も法蔵寺持」とある。現在、当社境内に建つ文久元年(一八六一)銘の二基の鳥居の内、一基は駒形神社のものである。また、白山神社と日王子神社は法蔵寺の旧地薬師堂山に祀られていた。
明治期、当社には専任の神職はおらず、大正に入り、遥拝所の脇で建具職を営む高橋家の次男源左衛門が信心篤く、幣を切ったり、参詣者のお祓いをしていた。大正七年に分家し、天明稲荷神社の社守としてその隣に居を構え、行を積んで富士講先達ともなった。源左衛門は鎮守熊野神社と天明稲荷神社の再興に生涯を捧げ、常に衆人の済度を本志とした人であった。修行の際の霊験も数多く伝えられ、大正十二年の関東大震災を予言したことは今も語り草となっている。(「埼玉の神社」より)
宮戸神社の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)