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一乗院。朝霞市膝折にある真言宗智山派寺院

一乗院の概要

真言宗智山派寺院の一乗院は、並流山平等寺と号します。一乗院の創建年代は不詳ですが、高麗郡が設置された霊亀2年(716)の後戦乱があり、戦乱を逃れた5人(高麗氏)が創建、観音寺と呼ばれていたといいます。

一乗院
一乗院の概要
山号 並流山
院号 一乗院
寺号 平等寺
本尊 十一面観世音菩薩像
住所 朝霞市膝折1-16-17
宗派 真言宗智山派
葬儀・墓地 一乗院会館
備考 菩提樹の森幼稚園



一乗院の縁起

一乗院の創建年代は不詳ですが、高麗郡が設置された霊亀2年(716)の後戦乱があり、戦乱を逃れた5人(高麗氏)が創建、観音寺と呼ばれていたといいます。

新編武蔵風土記稿による一乗院の縁起

(膝折宿)一乗院
除地二畝五歩、宿の中北側にあり、真言宗新義豊島郡石神井村三寶寺末、並流山観音寺「一名平等寺」と號す、本堂七間に五間、本尊十一面観音を安置す、開山の年歴等すべて傳はらず、ただ口碑に傳へたるは、此村は、開闢の頃高麗氏の開基なりと云へり、三宝寺末となりしは、宝暦六年十二月十二日、住僧宥巌法印の時なりとす。
稲荷社。本堂の前にあり。
古碑。是も本堂の前にあり、元弘の二字ほのかに見ゆ。その餘は滅してよむべからず。(新編武蔵風土記稿より)

「朝霞市史」による一乗院の縁起

膝折地区・一乗院
並流山一乗院平等寺といい、宗旨は真言宗智山派で、本尊は十一面観音である。近世においては石神井三寶寺の末寺であったが、現在では京都の大本山智積院の直末となっている。由緒等は詳らかでないが、『風土記稿』によれば並流山観音寺、一名を平等寺とするとあり、口碑に従うと断ったうえで、開基は膝折地区を開いた高麗氏であるとしている。また、寺伝によれば、高麗氏の城が陥落した際、五名の家臣が膝折へ落ち延びて来て住むようになり、膝折を開いたとし、と同時に乱世が平和に立ち返らんことと、人々の後生と菩提とを祈念して、一宇を建立したともある。そして、本尊として十一面観音を都より勧請したことから観音寺と称したといい、その後は南北朝の初期に宇治醍醐山の尊師によって本堂が建てられたとも伝えている。具体的な創建年については、文和年間(一三五二~五六)頃からの板碑が多数出土していることや、『朝霞市史通史編』でも「元弘年間(一三三一~三三)までは遡らない」としていることなどから、今のところ南北朝期とするのが適当かと思われる。
古くは本堂左手に大日堂、右手に地蔵堂を配し、豊臣秀吉の命によって稲荷社を設けていたともいう。そして、少なくとも近世に入ってからは本堂は一度、本尊ともども焼失を受け、さらに安政年間(一八五四~五九)にも火災に見舞われ、客殿・大日堂を失ったとされている。そして、この折、新たに本尊を造顕し、客殿を再建した。現在ある本堂は、焼失後に再建したのを解体し、やや北側へ移建したもので、昭和三十九年竣工によっている。また、庫裡は昭和二年に増築をみ、昭和五十五年に現状のように完成した。一方、西方には下寺とも呼んだ持明院を有していた。持明院については、『風土記稿』にもその記載があるが、正式には瑠璃光山持明院といい、本尊は坐像の薬師如来であった。ただし。その由緒等はまったく詳らかでない。持明院は早くから衰退し、当寺の兼務するところとなっていたようである。なお、明治になってからは、第一小学校の前身である膝折小学校が置かれ、旧役場としても使われていた時代がある。(「朝霞市史」より)

境内掲示による一乗院の縁起

一乗院略縁起
当山は山号を並流山、院号を一乗院、寺号を平等寺と称する。弘法大師空海上人によって平安時代に立教開宗された真言密教の法燈を斟み、京都東山の智積院を惣本山とし、成田山新勝寺川崎大師平間寺、高尾山薬王院の三大本山と、全国三千ヶ寺に及ぶ寺院を以て組織される真言宗智山派に属する寺院である。御本尊様は、十一面観世音菩薩で、御頭が十一の面からなり、あらゆる方向に顔を向けて苦しむ衆生を見逃すことなく救ってくれるという誓願を戴く仏様である。
門闢は寺伝によると「古来人ニ依ッテ成ル」とされ、「七一六年(霊亀二年)駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野ノ七国ノ高麗人、一、七九九人が武蔵国(現在の入間付近)ニ移住シ、高麗郡ガ置カレタ。ソノ後戦乱アリテ高麗ノ城陥レリ時、主将某ハ敵ノ為ニ討レ畢ヌ。家臣五人遁レテ落人トナリ此ノ膝折ノ地ヘ来レリ、其頃ハ只原野ナリ。彼ノ五人ノ者カヲ合ワセテ遂ニ家ヲ作リ居住ノ地トセリ、高麗氏ヲ家號トセル者アリ、ソノ時乱世ノ平和ニ立チ還エル殊ヲコイ希イ、且世ノ人々ノ後世ト縁者ノ菩提ヲ願イテ守リ本尊タル十一面観世音菩薩ヲ勧請安置シ一宇ヲ建立ス」というのが起源とされ当時は観音寺と呼ばれていた。
その後星移り物替って南北朝時代の初期に宇治の尊師に依って間口七間奥行五間の本像が建立された。[現在の寺域よりも東北百米の地で板碑百四十基が点在した場所、因に板碑は、一三五〇年(元和三年)より一四八〇年(文明十二年)が現存]序で本堂前に稲荷社を配し右手に地蔵堂、左手に大日堂が安置された。更に西に持明院を有し、その奥手に阿弥陀堂(現在の閻魔堂)が建立された。安政年間(一八一七年頃)に二度に互って火災に遭遇し客殿、大日堂等を焼失する。現在の山容は大戦後照興(中興)に依って定まれる。(境内掲示より)


一乗院所蔵の文化財

  • 板石塔婆

板石塔婆

板石塔婆は、中世に造られた供養塔の一種で、板碑とも呼ばれている。一乗院には、昭和二十六年から二十七年にかけて、境内墓地斜面から出土した。南北朝時代から室町時代までの百九十五基が収蔵されている。(朝霞市教育委員会掲示より)


一乗院の周辺図

参考資料
  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「朝霞市史」