古凍鷲神社。東松山市古凍の神社
古凍鷲神社の概要
古凍鷲神社は、東松山市古凍にある神社です。古凍鷲神社は、治承2年(1178)に鷲宮町鷲宮神社を勧請したとも、熊谷市相上の須長長春が孫の義清を連れて当社を勧請したとも伝えられ、江戸期には古氷村の鎮守として祀られていたといいます。
社号 | 鷲神社 |
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祭神 | - |
相殿 | - |
境内社 | 日枝・五霊・諏訪・稲荷・三峰、日枝、八坂 |
祭日 | - |
住所 | 東松山市古凍499 |
備考 | - |
古凍鷲神社の由緒
古凍鷲神社は、治承2年(1178)に鷲宮町鷲宮神社を勧請したとも、熊谷市相上の須長長春が孫の義清を連れて当社を勧請したとも伝えられ、江戸期には古氷村の鎮守として祀られていたといいます。
新編武蔵風土記稿による古凍鷲神社の由緒
(古氷村)
鷲明神社
村の鎮守なり、當社及下の三社共に、慈雲寺持、
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諏訪社
川王社
御靈社(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による古凍鷲神社の由緒
鷲神社<東松山町古凍四九九(古凍字宮前)>
古凍は古氷・古郡とも書き、比企郡の古の郡家の地であったのでこの名が起こったとみられる。
当社の創建は、社伝によると治承二年(一一七八)十月十四日に鷲宮町鷲宮神社から勧請した。その後、文治年間(一一八五-九〇)に本殿を建立し、貞和二年(一三四六)に覆屋を造営した。
一方、大里村相上の吉見神社社家である須長家の先祖が、寛永二年(一六二五)に著した「須長家由緒書」によれば、家督を譲った須長長春が孫の義清を連れて古氷村に移り住み、義清は古氷定右衛門尉と名乗り、村の鎮守として熊野大権現(現在須長一族の氏神)と鷲宮大明神(当社)を勧請し、更に菩提寺として慈雲寺を建立したという。「同家系図」の代々の没年から推すに、その年代は室町時代の中期と思われる。社殿にある治承二年とは三〇〇年余の隔たりが見られるが、あるいは衰微していた当社を同家で再興したことを示すのかもしれない。
『風土記稿』は、慈雲寺持ちの社として「鷲明神社 村の鎮守なり」と載せる。文化三年(一八〇六)には、正一位の神位を拝受した。
明治初年の神仏分離により慈雲寺の手を離れた当社は、神職の吉本良之進が代わって祭祀を司るようになった。更に明治三十年代から澤田家がこれを継ぎ、光行・豊・豊行と三代にわたって奉仕している。(「埼玉の神社」より)
古凍鷲神社の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)