箭弓稲荷神社。東松山市箭弓町の神社

猫の足あとによる埼玉県寺社案内

箭弓稲荷神社。野久原の稲荷、旧県社、別表神社

箭弓稲荷神社の概要

箭弓稲荷神社は、東松山市箭弓町にある神社です。箭弓稲荷神社の創建年代等は不詳ながら、当地が野久原(やきゅうはら)と称されていた頃に「野久稲荷大明神」として鎮座していたといいます。下総国千葉城の城主平忠常が反乱を起こした際、多田満仲の子で甲斐国主だった源頼信が、忠常追討の綸旨を受け取り野久原に布陣、当社に祈願の後反乱を制圧できたことから、社殿を再建し「箭弓稲荷大名神」と称えたといいます。中世の兵乱で衰微したものの、元和3年(1617)天海僧正(東叡山寛永寺の開山)が当地を通行の際に当社のことを知り再建、江戸時代中期より参詣者が著しく増え、現在の社殿は領主島田弾正が信者と謀り享保3年(1718)に建立したものだといいます。明治29年には郷社に列格、大正12年には県社に昇格、現在は別表神社となっています。
また、境内社の宇迦之魂社は、穴宮稲荷と称する他、七代目市川団十郎が特に信仰、文政4年(1821)仲秋に石造りの御神祠を建立したことから、団十郎稲荷とも称するといいます。

箭弓稲荷神社
箭弓稲荷神社の概要
社号 稲荷神社
祭神 保食命
合祀 -
境内社 宇迦之魂社(通称穴宮稲荷/団十郎稲荷)
祭日 -
住所 東松山市箭弓町2-5-14
備考 旧県社、別表神社



箭弓稲荷神社の由緒

箭弓稲荷神社の創建年代等は不詳ながら、当地が野久原(やきゅうはら)と称されていた頃に「野久稲荷大明神」として鎮座していたといいます。下総国千葉城の城主平忠常が反乱を起こした際、多田満仲の子で甲斐国主だった源頼信が、忠常追討の綸旨を受け取り野久原に布陣、当社に祈願の後反乱を制圧できたことから、社殿を再建し「箭弓稲荷大名神」と称えたといいます。中世の兵乱で衰微したものの、元和3年(1617)天海僧正が当地を通行の際に当社のことを知り再建、江戸時代中期より参詣者が著しく増え、現在の社殿は領主島田弾正が信者と謀り享保3年(1718)に建立したものだといいます。明治29年には郷社に列格、大正12年には県社に昇格、現在は別表神社となっています。

新編武蔵風土記稿による箭弓稲荷神社の由緒

(松山町)
稲荷社
小名箭弓原にある故に、箭弓稲荷と唱へり、享保中より殊に感應著く、諸人信仰するもの多し、今の如く市店旅宿門前に並べるは、彼頃よりのことなりと、延享二年時の地頭嶋田某、社地許多を免除せし例により、今も領主大和守より免除の社地あり、 (新編武蔵風土記稿より)

東松山市・埼玉県掲示による箭弓稲荷神社の由緒

箭弓稲荷神社
長元元年(一〇二八年)下総国(千葉県)の城主、前上総介平忠常は、下総に乱をおこし安房・上総・下総を手中に収め、大軍を率いて破竹の勢いで武蔵国へ押し寄せた。
長元三年秋、忠常追討を命ぜられた冷泉院の判官代甲斐守源頼信(多田満仲の子、頼光の弟)は、武蔵国比企郡松山野久ヶ原に本陣を張り、一泊した際に当社にもうで、敵退治の願書を呈し、太刀一振、馬一匹を奉納して一夜祈願した。その暁、白羽の矢のような形をした白雲が起って敵陣の方へ飛んだ(一説に白狐に乗った神が弓矢を授けた夢を見た)のを見て神様のお告げと感じ、ただちに兵を起こして敵陣に攻めこんだ。忠常の兵は不意の攻撃になすすべもなく敗れ、三日三晩の戦いで潰滅した。頼信はこれを喜びがいせんの際、立派な社殿を再建し「箭弓稲荷大名神」と称えたと伝えられている。
現在の社殿は享保三年(一七一八年)領主島田弾正が社地四町七反余を免除し、四方の信徒と図って建造したといわれている。
明治二十九年に郷社と定められ、大正十二年には県社に昇格し、衣食住はもとより、商売繁昌、開運の神として広く知られている。
また、境内にはボタン園があり、関東随一の名園といわれている。(東松山市・埼玉県掲示より)

「埼玉の神社」による箭弓稲荷神社の由緒

箭弓稲荷神社<東松山市箭弓町二-五-一四(松山字箭弓)>
松山宿は、江戸期に整備された川越熊谷道・秩父道・日光道と三本の脇街道が通る要衝で、比企郡のほぼ中央にある。江戸中期から繁栄した当社の箭弓稲荷講中は、これらの道を盛んに利用している。
鎮座地は、松山宿の西南に当たり、古くは野久原と呼ばれた。当社は、この野久原に祀られた稲荷神社で、初めは「野久稲荷神社」と号した。祭神は、保食命である。
「正一位箭弓稲荷大明神略縁起」は、本殿拝殿造営成就の記念として天保十一年(一八四〇)九月、別当福聚寺法印順性が記した由緒書きである。当社の社名由来伝説と別当福聚寺創建を述べている。
社名の由来については、長元元年(一〇二八)に、下総国千葉城の城主平忠常が謀反を企て安房・上総・下総の三か国を制圧し、大軍を持って武蔵国に侵攻した。これを受けて源家の棟梁多田満仲の子であり、甲斐国主を務める源頼信は、忠常追討の綸旨を賜り、鎮圧に向かった。しかし、多勢に無勢、武勇の頼信も心を悩ませた。その時、頼信の布陣する松山本陣近くで古い祠を見つけた。問えば、野久原に鎮まる「野久稲荷大明神」で、本地は「十一面観世音」であるという。これを聞いた頼信は、野久はすなわち箭弓(矢弓)の意で、武門の守護神であると、大いに奮い立ち、神前に怨敵退散の願書、太刀一振、駿馬一頭を奉納し、ついに忠常を撃滅することができた。一説には、白狐に乗った神が、弓矢を授けたと伝える。この神恩に報いるため、社殿を再建した。以来、野久稲荷は、箭弓稲荷と号せられるようになった。
一方、福聚寺の草創については、次のように載る。当社は中世の兵乱により衰微し、野中の小社となり、近くの庵主が神前に一灯を供ずるのみになっていた。元和三年(一六一七)、天海僧正が駿府から下野国へ神輿を守護し、当地松山宿を通行した折、大雨に見舞われたため、当社の宮守りをしていた庵主の草室に神輿を納めた。すると、忽然と弓箭を携えた翁が示現した。天海僧正が何者かと問えば「人にあらず、稲魂の神使なり、僧正守護する神輿の御先を掃仕して非常を静める役を、この松山野久の地に勤めん」と告げた。これを聞いた僧正は、庵主に翁の御告を伝えて当社の由来を聞き、箭弓稲荷大神を尊崇して社殿を造営した。この折、僧正は訪れた庵を一寺に取り立てて福聚寺をいう寺号を与え、庵主を別当職に補任した。
福聚寺は、天台宗法音山多聞院で、現在、東松山市本町にある。福聚寺の記録については、「新井好子文書」の「箭弓稲荷別当福聚寺同社上棟遷宮金寄付請取状」によると、天保六、七年(一八三五、三六)の上棟遷宮に際して、松山町糀屋新井喜兵衛は、建替金並びに買掛金あわせて五十両すべてを神社に寄附した。このため福聚寺は、請取状を発するとともに、永く神前において報恩のための日護摩修行・御家内安全・子孫長久祈願を行い、正月には永代神札進上を約している。また、『白川家門人帳』によると、福聚寺住僧は、村中の重立や吹上の京屋喜右衛門らとの連名で、神祇道長官である白川家より、正一位稲荷大明神の神璽、額字、染筆を拝受している。
社殿は、豪壮な権現造りである。『箭弓神社御社殿』(松本十徳著・同社発行)によると、造営した棟梁は、武州大里郡河原明戸村の飯田和泉藤原安軌で、彫刻はその弟の仙之助が施した。この社殿は、天保六年に造営したもので、現在、県指定文化財である。本殿桟唐戸には、花の浮彫刻がはめ込まれ、正面の虹梁も彫刻で、極彩色である。これは本殿外構とは様式が異なることから、先の享保年中(一七一六-三六)に造営した本殿の唐戸ではないかと考えられる。また、拝殿正面の琵琶板には、「三条小鍛冶」の彫刻がはめ込まれている。これは、三条鍛冶宗近が稲荷山の神霊の加護で名刀を鍛えることができた稲荷信仰の伝説をもとにしたもので歌舞伎などでよく演じられる。
彫刻を行った飯田仙之助の師承筋は、上州花輪村(現勢多郡東村大字花輪)出身の石原吟八郎義武で、享保十六年(一七三一)には日光東照宮の修営を行っている。仙之助の倅岩次郎は秩父の三峰神社の水屋、川越の氷川神社の社殿などの彫刻も手掛けている。(「埼玉の神社」より)

境内社宇迦之魂社について

箭弓稲荷神社境内社の宇迦之魂社は、穴宮と称し「当社眷属の穴居なるを以て」俗に穴宮と称しているといいます。七代目市川団十郎が特に当社を信仰、文政4年(1821)仲秋に石造りの御神祠を建立したことから、団十郎稲荷とも称するといいます。

宇迦之魂社御由緒(通称穴宮稲荷・団十郎稲荷)
社記に依れば「穴宮は当社眷属の穴居なるを以て俗に称す」とあります。
団十郎稲荷は、文政三年(一八二〇)の秋七代目市川団十郎が特に当社を信仰し芸道精進の大願成就の心願を御祈願し、その当時の江戸の柳盛座の新春歌舞伎興行において、「葛の葉」「狐忠信」等の段が素晴らしく演じられ毎日札止めの大盛況で目出度く終演したことは、一重に大神様のご加護のお陰であるとして、御礼に文政四年(一八二一)仲秋に石造りの御神祠を建立されました。
それ以来、役者衆の参拝や花柳界・水商売・一般の方々の信仰厚く、芸能向上、商売繁昌の守護神として広く崇敬されています。(箭弓稲荷神社社務所掲示より)


箭弓稲荷神社所蔵の文化財

  • 箭弓神社の本殿と絵馬(市指定文化財)

箭弓神社の本殿と絵馬

箭弓神社の本殿は、正面五・四三m、奥行は五・一五mあり、屋根は切妻単層三重棰木の銅葺でできています。
本殿の正面、妻梁上の両破風面は、竜・獅子・獏等の彫刻をあしらったものが多くを占めています。本殿裏には、仙人が烏鷺(囲碁)を戦わせて遊び楽しんでいる彫刻もあり、竜・獅子・獏等力強い彫刻の多い中で興味あるものです
本殿内部の各桝組は、極彩色の花卉模様がちりばめられており、正面の扉、柱及び欄間には、極彩色の花鳥の彫刻があります。床面は朱塗りで、全体が日光廟の模様を小さくした感じです。
絵馬は、神社に馬を奉納するかわりに、板に馬を描いて奉納したのがはじまりで、近世になると馬以外の題材も扱うようになります。「呉服店」「馬上の中国武人」「関羽と張飛」「俵藤太秀郷」「牛若丸と弁慶」「予譲の仇討」「文人机に寄り」「武人と騎馬武者」の題名で八点の絵馬が指定されています。いずれも一~四mの大型の絵馬で、数多くある箭弓神社の絵馬でも、作風保存状況等の優れたものです。
箭弓神社の社記によれば、祭神は宇迦御魂命(保食神)で、平安時代(長元元年-一〇二八年)の草創とされています。現在の本殿等は江戸時代(天保年間-一八三六年頃)に建立され、その後数回改築されています。(東松山市教育委員会掲示より)

箭弓稲荷神社の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)