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中福岡弁財天。ふじみ野市仲の神社

中福岡弁財天の概要

中福岡弁財天は、ふじみ野市仲にある弁財天です。中福岡弁財天は、薬王寺の境内だった当地の「赤沼の池(薬王寺池・薬師手洗池とも)」に、正徳元年(1711)住職厳周が池の周囲の改修を行い、同時に弁財天を池の島に祀り創建したといいます。池の湧水が枯渇してしまった昭和35~36年までは、赤沼の池が江川からの用水の不足を補う役割を果たしていたことから、三福岡の住民で池の掃除をしていたといいます。

中福岡弁財天
中福岡弁財天の概要
社号 弁財天
祭神 -
相殿 -
境内社 -
祭日 祭礼7月23日
住所 ふじみ野市仲2-13水天宮公園内
備考 -



中福岡弁財天の由緒

中福岡弁財天は、薬王寺の境内だった当地の「赤沼の池(薬王寺池・薬師手洗池とも)」に、正徳元年(1711)住職厳周が池の周囲の改修を行い、同時に弁財天を池の島に祀り創建したといいます。池の湧水が枯渇してしまった昭和35~36年までは、赤沼の池が江川からの用水の不足を補う役割を果たしていたことから、三福岡の住民で池の掃除をしていたといいます。

「上福岡市史資料編」による中福岡弁財天の由緒

厳島神社
中福岡地区の薬王寺の向かい、現在の水天宮公園内に祀られている。ベンテンサマ(弁天様)と呼ばれて住民に親しまれている。一帯は以前湧水地であり、社は赤沼の池(薬王寺池・薬師手洗池とも)と呼ばれる池の中島に祀られていた。昭和三五~三六年以降地下水の水位が下がり、現在では池の水は枯れてしまっている。
薬王寺は江戸時代前期の明暦年間(一六五五~五八)の創建と伝えられ、赤沼の池はその手洗いの池として寺付きになったものという。
中福岡地区には寛政六年(一七九四)の絵図面(富田初美家文書)が残されており、江戸時代の水利を知ることができる。それによると、池の水は江川と合流して北東に進み、周囲のみならず福岡新田を通って下福岡まで運ばれている。
江戸後期の『風土記稿』には、以下のように記されている。
本村薬王寺前なる沼より出る清水をもて用水となせども、ややもすれば水損の患あり
このように池の湧水は田の灌漑に用いられ付近を潤していたが、しばしば渇水にみまわれたため、江戸時代を通して数度の改修工事が行われた。そのうち、正徳元年(一七一一)に、住職厳周が池の周囲の改修を行い、同時に池の島に弁財天が祀られたのが始まりという。
明治に入り、二二年(一八八九)三月に、東京日本橋から水天宮が分社されるに及び、池は水天宮の池として親しまれるようになった。同三五年(一九〇二)には、住職中村鶴乗が発起人となり池の島の祠宇の改築を行っている。同時に池の周囲の修復も行われたが、費用は全額、福岡・中福岡・福岡新田の三福岡村が支出しており当時においても池の水が灌漑用水として重要であったことがうかがわれる。大正期の付近について『入間郡誌』は以下のように記している。
赤沼の池薬王寺池とも呼ぶ。池中に弁天あり。用水の源なり。その修繕工事はすこぶる沿革あり。
また、別の著は以下のように往時をしのばせている。
この寺(薬王寺のこと)の側に小池がある。清水こんこんとして流出し、深碧の色を湛え、周囲には大きくもあらねど杉の木が並び立ち、気持ちのよいところである。(高橋源一郎『武蔵歴史地理』)
池は戦後になっても、江川からの用水の不足を補う役割を果たしていた。そのため湧水が枯渇してしまった昭和三五~三六年までは、八月一日には三福岡の人が集まり、池の掃除を行っていた。(「上福岡市史資料編」より)

新編武蔵風土記稿による中福岡弁財天の由緒

記載なし(新編武蔵風土記稿より)


中福岡弁財天の周辺図

参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「上福岡市史資料編」

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