正覚寺。行田市城西にある浄土宗寺院

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正覚寺。成田下総守氏長開基、行田救済菩薩十五霊場

正覚寺の概要

浄土宗寺院の正覚寺は、大雄山摂聚院と号します。成田下総守氏長以下成田家中の托(寄託)を受けた證蓮社明誉智教和尚が、天正6年当地に創建しました。行田救済菩薩十五霊場2番、忍領三十三所2番です。

正覚寺
正覚寺の概要
山号 大雄山
院号 摂聚院
寺号 正覚寺
本尊 阿弥陀如来坐像
住所 行田市城西4-3-21
宗派 浄土宗
葬儀・墓地 -
備考 行田救済菩薩十五霊場2番、忍領三十三所2番



正覚寺の縁起

正覚寺は、成田下総守氏長以下成田家中の托(寄託)を受けた證蓮社明誉智教和尚が、天正6年当地に創建しました。開山の證蓮社明誉智教和尚は、鎌倉光明寺で修行後、駿河横内に正覚寺を創建した僧で、(2代目)源道の代、当時の忍城主松平忠吉(尾張徳川家始祖の先代)より忠吉の母宝台院の位牌所に定められ、寺領30石の御朱印地を拝領しています。源道は松平忠吉に従い清洲へ移ったため、鴻巣勝願寺より祖芳をを迎えました。

新編武蔵風土記稿による正覚寺の縁起

大雄山摂聚院と号す。浄土宗、京都知恩院末、開山を證蓮社明誉智教和尚と云。此僧駿河国江尻江浄寺に於て剃染し、後鎌倉光明寺に住し、又駿河国横内正覚寺を創し元亀年中当地に来り、成田下総守氏長の托を受て当寺を起立し、天正6年堂塔以下落成す。棟札の文に大旦那成田下総守氏長、建立證蓮社明誉上人大和尚、指南檀那澤駿河守泰次花村統領三左衛門、寄進施主成田肥前守・後藤民部少輔・野澤隼人・竹内権左衛門・大屋淡路守・田山隼人・神山興惣右衛門・内田出雲守・福岡越前守・青山和泉守・吉田内記・神屋出羽守・山田四郎左衛門・関根将監・清水下野守・久下刑部少輔・中村丹波守云々、天正6年3月7日と記せり。開山明誉は慶長6年12月2日示寂す。二世を源道と云、此源道の時左中将忠吉卿の御母堂、寶台院殿の御位牌所に定られ、寺領30石を御寄附あり、然るに慶長5年忠吉卿尾州清洲へ移り給ひし頃、源道を彼地へ招せられ、別に正覚寺と云を草創して住職たりしゆへ、当寺は鴻巣勝願寺不残の弟子、祖芳をして住持たらしめしかば、源道は当寺の世代に入ずと云、其後慶長9年先規に任せて30石の御朱印を賜はれり。本尊阿弥陀の立身3尺、安阿弥の作にて、後光の裏に忍住人神屋興右衛門尉、本尊再興寄進勧進、檀那法名香樹天英、為大菩薩也と記せり。
什寶、釈迦像一体、佛師定朝の作にて、開山明誉が念持佛と云。
天神明号一幅、長丸君7歳に成せ玉ひし時の御染筆なりと云、長丸君は台徳院殿の御幼名なり。
御守筒、梅貞童子の負はせ賜ひしものと云、長さ1尺3寸5分、円径3寸3分、銅の滅金に唐草の彫ありて、葵御紋27ヶ所にあり。
開山明誉木像一軀、明誉天正10年2月、58歳の時自作なりと云。
鐘楼、元禄2年鋳造の鐘なり。銘末に大檀那小栗孫助正豊と彫れり。
稲荷浅間合社。
馬貞童子御墓。左中将忠吉卿の子にて、開山は是も明誉なりと云、本尊弥陀の立像恵心の作なり。
観音堂、正観音の坐像を安ず。長1尺5寸、運慶が作と云。(新編武蔵風土記稿より)


正覚寺のもと末寺

  • 林正寺

林正寺

林正寺は、正覚寺と同じ持田村にあった寺で、正覚寺と同じく開基成田下総守氏長、開山證蓮社明誉智教和尚でした。

林正寺。
正覚寺末、補陀落山と号す、成田下総守氏長の開基にて、開山は是も明誉なりと云、本尊弥陀の立像恵心の作なり。
観音堂、正観音の坐像を安ず、長1尺5寸、運慶が作と云。


正覚寺所蔵の文化財

正覚寺には、忍城主松平忠吉(尾張徳川家始祖の先代)の母宝台院の位牌所に定められ、当地で亡くなった忠吉の子梅貞童子が葬られています。

  • 梅貞童子の墓(行田市指定文化財)
  • 木造阿弥陀如来坐像(行田市指定文化財)
  • 梅貞童子の御守筒(行田市指定文化財)

正覚寺の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿