玄正院。比企郡川島町正直にある寺院

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玄正院。比企郡川島町正直にある寺院

玄正院の概要

寺院の玄正院の創建年代等は不詳ながら、安永6年(1777)には、世義寺の山主盛尊から院号職を補任され、権大僧都並びに錦地袈裟着用を許されていた修験寺院です。江戸期には正直日枝神社戸守氷川社の祭祀を司っていました。

玄正院本堂
玄正院の概要
山号 -
院号 玄正院
寺号 -
本尊 -
住所 比企郡川島町正直
宗派 -
葬儀・墓地 -
備考 -



玄正院の縁起

玄正院の創建年代等は不詳ながら、安永6年(1777)には、世義寺の山主盛尊から院号職を補任され、権大僧都並びに錦地袈裟着用を許されていた修験寺院です。江戸期には正直日枝神社戸守氷川社の祭祀を司っていました。

新編武蔵風土記稿による玄正院の縁起

(正直村)
玄正院
當山派修験、横見郡一ツ木村龍海寺配下、本尊不動を安ず、(新編武蔵風土記稿より)

埼玉の神社による玄正院の縁起

日枝神社<川島町正直一(正直字三王町)>
江戸期、当社の別当は普門寺であるが、日ごろの祭祀諸祈禱は阿部家が行った。岡部家は、三重県伊勢市岡本にある真言宗醍醐派修験、世義寺配下に属す比企郡の有力修験で、玄正院と号した。岡部家文書から玄正院の事跡を述べると次のようになる。
安永六年(一七七七)、世義寺の山主、盛尊から院号職を補任されるとともに、権大僧都並びに錦地袈裟着用を許されている。
天明元年(一七八一)、世義寺の役僧と思われる修験院惠海から、正灌頂柱源秘印可を伝授される。この時、調製されたものかどうかわからないが、阿部家の氏神である三峯社には、「ひもろぎ」として、柱源護摩に使用した法具の一つである水輪(柱源)が奉安されている。柱源護摩は、修験者が天地大自然と一体となる時に用いる修法で、この時、水輪を始め、華桶・閼伽桶・舎利器・杓・独鈷が用意される。この内、水輪は正面に水を入れ、三本の柱を立てる。中央の柱を閼伽札、左右の柱を乳木と呼ぶ。これが三峯社に祀られるようになったのは、玄正院が明治初年の神仏分離により復職してからで、修験時代の柱源を神の依代としての「ひもろぎ」に解釈した結果であろう。
文化六年(一八〇九)、世義寺から権大僧都並びに大越家を補任されるとともに、同寺同行のもと、大峯修行を行い、修験としての格を上げている。
文政十年(一八二七)の「上納金議定一札」によると、玄正院は吉町見の一ツ木村の醍醐派修験の触頭を務める氷川山文珠院龍海寺の触下惣代となる。玄正院は、龍海寺の下にあって配下修験冥加金並びに湯立神楽を行う巫子役銭を上納している。
また、文政十年の「巫子職国号免許願」によると、玄正院が祭祀を行う当社並びに川島町戸守の氷川社と、東松山市柏崎の龍宝寺が祭祀を行う東松山の八幡宮とに奉仕した巫子職の松翁ときな両名は、国号を持たずにその職を務めていた。このため、玄正院と龍宝寺の両名は、触頭である龍海寺の添え書きとともに醍醐御役所に願いを出し、「出雲」という国号を配下巫子職のために得ている。また、この年、玄正院の妻も当社と氷川社の巫子職となっている。
安政二年(一八五五)、大般若経六百巻の勧進を行っている。現存する二冊の「大般若経勧進帳」によると、一冊は大般若経巻勧進、一冊は主に経机・経櫃・経筒・法具など、大般若経に関する諸道具の勧進になっている。この内、大般若経巻の勧進帳については、天下泰平・五穀成就・万民豊栄の大法会を行うために、庶人より助力を仰いでいる。大願主は玄正院、世話人は正直村の名主を務めた野沢新助を始め、鈴木縫三郎、同三次郎、同伝蔵、山口治右衛門である。ちなみに、山口治右衛門は、大般若経の経堂地所を寄進している。大般若経の勧進は、一巻につき銀一朱で、これには寄進者の氏名と、「為先祖代々菩提也」「為家内安全」などの願意が記されている。大般若経の寄進者は、特に川島・吉見・東松山・川越・日高・飯能などに所在する約四十か村の村々の一八〇余名の人々である。勧進で成就した大般若経は、当社の神前で経の帯が解かれ、法会が行われた。(新編武蔵風土記稿より)


玄正院の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿