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騎西城跡。加須市根古屋にある旧跡・名所

騎西城跡の概要

騎西城跡は、加須市根古屋にある名所旧跡です。騎西城跡は、室町時代から江戸時代初期にあった騎西城の跡地の一部です。騎西城の築城は不明ながら、上杉・長尾・庁鼻和氏等が守る騎西城を、古河公方足利成氏が康正元年(1455)に攻略。、その後小田助三郎が守る騎西城を上杉謙信が永禄6年(1563)に攻め落としています。徳川家康がの関東入国に際し、天正18年(1590)松平康重が二万石で入城、その後大久保忠常・忠職父子が城主となりましたが、大久保忠職が美濃国加納城(岐阜県岐阜市)へ移封となり、廃城となっています。史実の騎西城は平屋の館ですが、天守閣を持つ城として復元、天守閣は郷土史料展示室として公開されています。

騎西城跡
騎西城跡の概要
旧跡・名所名 騎西城跡
みどころ 加須市指定史跡
入場時間 -
入場料 無料
住所 加須市根古屋633(土塁は634-7)
備考 -




騎西城跡の縁起

騎西城跡は、室町時代から江戸時代初期にあった騎西城の跡地の一部です。騎西城の築城は不明ながら、上杉・長尾・庁鼻和氏等が守る騎西城を、古河公方足利成氏が康正元年(1455)に攻略。、その後小田助三郎が守る騎西城を上杉謙信が永禄6年(1563)に攻め落としています。徳川家康がの関東入国に際し、天正18年(1590)松平康重が二万石で入城、その後大久保忠常・忠職父子が城主となりましたが、大久保忠職が美濃国加納城(岐阜県岐阜市)へ移封となり、廃城となっています。史実の騎西城は平屋の館ですが、天守閣を持つ城として復元、天守閣は郷土史料展示室として公開されています。

境内掲示による騎西城跡について

騎西城跡
騎西(私市)城は、いつ誰の手による築代かは不明だが、康正元年(一四五五)、上杉・長尾・庁鼻和氏等が守る城を、古河公方足利成氏が攻略したのが初見である。永禄六年(一五六三)には、小田助三郎が守る騎西城を上杉輝虎(謙信)が攻め落している。
徳川家康が関東に入った天正十八年(一五九〇)、松平康重が二万石で城主となる。康重は大英寺を開基し、保寧寺(日出安)に寺領を与えてりう。その後、大久保忠常・忠職父子が城主となり、玉敷神社を現在地に遷座するなど、城下町記載の再編を行った。寛永九年(一六三二)、忠職の美濃国加納城(岐阜県岐阜市)移封に伴い騎西城は廃城となった。
-掘り出された騎西城-
昭和五四年からの発掘調査により、城郭・武家屋敷跡から戦国~江戸初期の堀跡や武器・武具・生活用具が出土している。城の周囲は二重の障子堀が巡り、堀幅の最大は四五メートルであった。激戦に備え総力で築いたことを物語っている。
出土品は多様で、国内外の陶磁器、矢じり・鎧金具・火打金等の金極製品がある。このほか、大量の漆・木製品も出土している。漆黒の兜、金色に輝く馬の鎧、鶴文の漆椀に加え、下駄・荷札・呪符・護符なお、いずれも城下の暮らしぶりを鮮やかに甦らせる。(境内掲示より)

新編武蔵風土記稿による騎西城跡について

(根古屋村)
私市城蹟
廢せし年代詳ならず、されど騎西町場村民所蔵せる城壁の圖あり、これ寛永年中松平伊豆守領せし時のものなるよし、其家人の姓名等を記したれば、この頃迄も城壁の存せしことしらる、舊くは騎西山の根とも、土人又根古屋城とも云、私市と云ことは騎西町場に辨ぜり、本丸・二丸・三丸・厩及鐵砲場等、今は竹林及雑木生茂れる地となれり、本丸は廻り九十間餘、二丸は廻り百二十間餘、本丸・二丸・其外の所々めぐりに土手の蹟のこり、大手口ありし所は東に向へる様にして、この外城の廻り沼なりしところ、今は大略水田となれり、土人所蔵せる舊記に、山根城は太田道灌築き、城主本間彌九郎、夫より小田大炊助・小田助三郎居城たりしと、又【甲陽軍艦】云、永禄五年三月上杉輝虎、成田長泰が次男、小田助三郎賴興が籠りし私市の城へ押寄、一日一夜攻戰ふ、城中わづか五十騎ばかり、終に打負て助三郎自害し、則城をも焼拂と云々、初輝虎城外を巡見し、廊下橋の間より婦人の移るを見て、人質曲輪なることを知り、沼を埋め無體に攻破りしと云、又【小田原記】にのする處は、小田降を請とあり、いづれが正しきを得たりしやしらず、且助三郎を【廢城考】に伊賀守と記す、助三郎は初の名なるべし、御入國の初松平周防守康重、武州騎西に於て二萬石を賜ふと、其家の譜に見えたるはこゝのことなり、この後領主の遷替は騎西町場の條に辨ぜり、(新編武蔵風土記稿より)


騎西城跡の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」