沼上北向神社。坂上田村麻呂が創建した五社の一社
沼上北向神社の概要
沼上北向神社は、児玉郡美里町沼上にある北向神社で、延暦15年(796)7月に坂上田村麻呂が創建したと伝えられる五社(沼上北向神社・阿郡志河輪神社・北十条北向神社・小茂田北向神社・古郡北向神社)のうちの一社と比定されています。江戸時代には沼上村の鎮守社となっていました。明治5年に村社に列格、明治40年に宇桑中の稲荷神社を合祀、大正2年に字上宿の玉手長男神社と字南の稲荷神社を境内に遷座したといいます。
社号 | 北向神社 |
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祭神 | 大巳貴命、素盞嗚命、少彦名命、 |
相殿 | 倉稲魂命 |
境内社 | 桑中稲荷神社、天手長男神、諏訪、愛宕、大山祇、倉稲魂神、埴安媛命、少彦名命、大己貴命、天照大神、弁天社、菅原道真公 |
祭日 | 例祭日10月19日 |
住所 | 児玉郡美里町沼上1 |
備考 | 旧沼上村の鎮守、旧村社 |
沼上北向神社の由緒
北向神社の創建年代は不詳ですが、延暦15年(796)7月に坂上田村麻呂が創建したと伝えられ、江戸時代には沼上村の鎮守社となっていました。明治5年に村社に列格、明治40年に宇桑中の稲荷神社を合祀、大正2年に字上宿の玉手長男神社と字南の稲荷神社を境内に遷座したといいます。
美里町史による沼上北向神社の由緒
(沼上村)北向明神社
村の鎮守にて長福寺持。
末社。諏訪、愛宕、金毘羅、山神、牛頭天王、八幡、弁天、天神(美里町史より)
境内北向神社社殿改修委員会石碑による北向神社の由緒
当社は祭神大巳貴命、素盞嗚命、少彦名命に明治40年桑中稲荷神社を合祀四柱である。社伝によると創立は桓武天皇の延暦15年(796)7月坂上田村麻呂とあるから、凡そ千二百年に垂んとすることになる。。主要建物は社殿即ち本殿・幣殿・拝殿から成り、其の他透塀、神楽殿、祭器庫、社務所等である。境外参道に横開き12尺高さ18尺欅造銅板葺の当社が誇る大鳥居がある。この注連縄行事は毎年秋の例祭前に行われ、昭和53年美里町指定文化財となる。社殿は正親町天皇の永禄年間(1558-1570)に再建された後後櫻町天皇の宝暦6年(1576)に改築されたと伝えている。従って其の外幾度かの補改修があって近世に至っていることは想像に難くない。明治以降社殿改修の経緯を見ると、同32年氏子奉賛金千五百円を以って本殿幣殿屋根を銅板葺に、昭和13年拝殿屋根葺替、同34年の伊勢湾台風及び同41年の台風に御神木杉目通10尺を始め老杉古木の倒伏折損に因る損壊箇所の復旧、同56年社務所再建、同57年拝殿屋根等改修葺替、平成2年御大典記念事業として、大鳥居基礎改修工事、同4年神楽殿解体修理及び祭庫屋ね葺替等、相次いで境内外建物の補改修を行う。
このたびの社殿等改修事業は、本殿等其の老朽化に因る屋根の下地柱梁等の腐食虫害による他、昨年9月発生した突風に因る破損箇所の復旧と併せ改修し、悠久の歳月を先人累代が保全管理し遺された事蹟を想い、この貴重な文化財を後世に承継すべきと氏子奉賛により、茲に総工費七百三十余万円を以て竣功した。
本殿遷座祭3月28日早旦社殿を装飾、午後7時仮殿所定の祭事に次いで庭燎等消火消燈浄閉程に、前陣松明を先導に所役丈夫威儀物を奉持絹垣に囲まれ宮司「御」を奉載続いて献幣使区長総代参列者本殿に参道入御、奉遷し大儀を斎行退出する。
茲に竣功を祝し曾てない多勢の協力、又所役の大任に従い滞なく、前代未聞の威儀を了たことは感慨に価するものがある。(境内北向神社社殿改修委員会石碑より)
埼玉県神社庁「埼玉の神社」による北向神社の由緒
沼上の地は身馴川南岸の水田地帯に位置する。地内にはかつて条里制遺構が見られたほか、地内の水殿と呼ぶ辺りに水殿瓦窯跡(国指定史跡)がある。この窯跡で生産された軒平瓦・平瓦は鎌倉永福寺(注、廃寺)の寛元-宝治年間(1243-49)の大修理に使用されており、一三世紀中ごろに操業していたと推定されている。更に、字宮下には奈良・平安期の集落跡があり、土師器・須恵器が出土しており、古くから開かれた地であったことをうかがわせる。
当社は主祭神として素盞嗚命・大己貴命・少彦名命の三柱を祀り、地内の一番南にある字宮上に北向きに鏡座している。旧別当の長福寺の西脇から参道が始まり、五〇㍍ほど進むと、美里町で最も大きいといわれる木造の両部鳥居〔高さ五・五㍍、幅三・六五㍍)があり、正面に「正一位北向大明神」の社号額が掛かる。更に二〇〇㍍ほど進んで行くと、杉・檜・欅・樫などの木々に閉まれた本社が現れる。
社伝によれば、延暦15年(796)に坂上田村麻呂将軍が東征の途次、身馴川の水底に棲む大蛇を退治しょうとした時、上野国(群馬県)赤城明神の神霊を感じて児玉郡内に五社の北向神社を勧請し、当社はその内の一社であるという。ちなみに、他の四社は阿郡志・北十条・小茂田・古郡の各大字に祀られている。また、永禄年間(1558-70)と宝暦6年(1756)に社殿の再建を行った。更に、安永5年(1776)7月11日には正一位の神階を授けられて「正一位北向大明神」と唱え、同時に金幣一体を奉安したという。この時に神祇管領吉田家から受けた霊璽が現存している。
安政4年(1857)の「奉納土俵之式證状之事」(社蔵文書)によると、当時五穀成就の祭りに例年相撲を行っていたという。
「風土記稿」沼上村の項に当社は 「北向明神社 村の鎮守にて長福寺の持、末社 諏訪愛宕金毘羅 山神 牛頭天王 八幡 弁天 天神」とある。更に別当の長福寺については「新義真言宗、那賀郡広木村常福寺末、瑠璃光山薬師院と号す、本尊大日を安ず、又傍に北向明神の本地薬師を置り、当寺は名主利右衛門が先祖、九左衛門義長なるもの逸見上総介光長の苗裔にて、武田家滅亡の後当所に跡をかくし、かの明神の本地崇信のあまり、慶長2年(1597)一宇の堂を創建せり、因てこれを開基と称す(後略)」とある。一方、現在当社の宮司を務める瀬戸家には、文政3年(1820)11月16日付で神祇管領から正一位北向大明神社人瀬戸喜兵衛源豊広に出された神道許状を所蔵していることから、往時から実際の祭祀は瀬戸家が司っていたものと思われる。
当社は明治5年に村社となり、同40年には宇桑中の稲荷神社を合祀した。更に、大正2年には字上宿の玉手長男神社と字南の稲荷神社を境内に移転した。(埼玉県神社庁「埼玉の神社」より)
沼上北向神社所蔵の文化財
- 沼上北向神社の注連縄行事
沼上北向神社の周辺図