河輪神社。三代実録に記載の河曲神社
河輪神社の概要
河輪神社は、美里町阿那志の諏訪山にある神社です。河輪神社の創建年代は不詳ですが、三代実録に載っている河曲神社であると伝えられる古社で、坂上田村麻呂が東北地方の反乱を鎮定する際の延暦20年(801)に当社に祈願したといいます。慶長年中に地頭安藤彦四郎が諏訪神を尊信して当社に合祀、社号を諏訪神社と改称、明治28年(1895)に再び河輪神社に改称したといい、明治40年には字新井より移転した北向五社(沼上北向神社・阿郡志河輪神社・北十条北向神社・小茂田北向神社・古郡北向神社)の一つである北向神社、字天神に祀られていた赤城神社・妙義神社・榛名神社・天手長男神社、同41年に字横手の御嶽神社、字塚田の富士仙元社を遷座したといいます。江戸時代には阿那志村の鎮守社となっていました。
社号 | 河輪神社 |
---|---|
祭神 | 淤迦美神 |
相殿 | 健御名方命、八坂刀売命 |
境内社 | 榛名社、赤城社、妙義社、天手長男社、稲荷社、二柱社、若宮八幡社、北向社、富士仙元社、御嶽神社、八海神社、三笠神社 |
祭日 | - |
住所 | 児玉郡美里町阿那志1663 |
備考 | - |
河輪神社の由緒
河輪神社の創建年代は不詳ですが、三代実録に載っている河曲神社であると伝えられる古社で、坂上田村麻呂が東北地方の反乱を鎮定する際の延暦20年(801)に当社に祈願、鎌倉時代には河匂左京進、畠山重忠、那須宗高等の武将が崇敬したしたといいます。慶長年中に地頭安藤彦四郎が諏訪神を尊信して当社に合祀、社号を諏訪神社と改称、明治28年(1895)に再び河輪神社に改称したといい、明治40年には字新井より移転した北向五社の一つである北向神社、字天神に祀られていた赤城神社・妙義神社・榛名神社・天手長男神社、同41年に字横手の御嶽神社、字塚田の富士仙元社を遷座したといいます。
新編武蔵風土記稿による河輪神社の由緒
諏訪社
村(阿那志村)の鎮守とす。光勝寺持
末社。稲荷、天神、聖天。(新編武蔵風土記稿より)
美里町史による河輪神社の由緒
河輪神社
阿那志の鎮守河輪神社には淤迦美神外15柱の神々が祀られている。当社は三代実録に載っている河曲神社であると、伝えられる古いお社である。桓武天皇の御宇、延暦20年(801)、坂上田村麻呂が東北地方の反乱を鎮定する際に、当社に祈願して功を奏したという。清和天皇の貞観17年(875)12月5日に正六位の位階を授けられた。降って鎌倉時代には河匂左京進、畠山重忠、那須宗高等の武将が崇敬したことが口碑に残っている。徳川時代になって、慶長年中地頭安藤彦四郎が諏訪神を尊信して当社に合祀して、社号を諏訪神社と改称した。当社は盛夏旱魃になると、代官が近村の村吏を従えて祈雨祭を修行するのを例としたが、霊験最も顕著であったという。古文書類は元和年間の火災で全部焼失し、今は元禄16年(1703)の棟札が残っているだけだという。明治28年(1895)に再び河輪神社に改称して今日に至っている。(美里町史より)
埼玉県神社庁「埼玉の神社」による河輪神社の由緒
当社は「三代実録」に記載されている「河曲神社」と想定され、いわゆる国史現在社と考えられる。鎮座地は志戸川の湾曲した流れに面している字上川輪先の諏訪山である。
社伝によると、延暦20年(801)坂上田村麻呂が蝦夷征討の折、当社に祈願したという。その後、武蔵七党の猪俣党河勾氏の本貫地として、河勾七郎・河勾左京進入道等の子孫代々の信仰を得て社殿の造営を行った。次いで、慶長年間(1596-1614)には地頭安藤彦四郎が信州の諏訪神を合祀し、別当光勝寺を祈願所としてより諏訪神社と改称したという。以後、江戸時代は諏訪神社と称した。
当社は雨乞いに霊験あらたかといい、干ばつ時には代官が近在近郷の官吏を従えて祈雨祭を実施し、旗本安藤氏より褒賞されている。
明治19年には、社号を旧名に擬すとして社号改称願が県令に提出され、同28年に河輪神社に改称した。また、同33年と35年には郷社昇格願も提出されている。
主祭神は淤迦美神で、合殿の神に健御名方命と八坂刀売命が祀られている。境内社は、三和神社・二柱神社・若宮八幡神社をはじめ、明治40年に字新井より移転した北向五社の一つである北向神社、字天神に祀られていた赤城神社・妙義神社・榛名神社・天手長男神社、同41年に字横手の御嶽神社、字塚田の富士仙元社を移転した。(埼玉県神社庁「埼玉の神社」より)
河輪神社の周辺図