真言宗勝願寺。鴻巣市登戸にある真言宗豊山派寺院
勝願寺の概要
真言宗豊山派寺院の勝願寺は、松岡山本誓院と号します。文永元年記主禅師(然阿良忠上人)が浄土宗寺院として創建したと伝えられます。記主禅師は浄土宗第二祖で後嵯峨院・後深草院の御授戒の師で、北条経時の帰依を受けたという名僧で、鎌倉光明寺を創建、その折に当地箕田郷を寺領として拝領、その折に師の法名(勝願院良辺僧都)より名付けた当寺を創建したといいます。天正年間に僧惣誉清巌が鴻巣市本町に天照山勝願寺として再興、当地には堂宇がそのまま残されましたが、慶安元年(1648)には徳川家光より寺領10石の御朱印状を受領、当時住していた僧円慶が真言宗僧だったことから、真言宗勝願寺として再建したといいます。
山号 | 松岡山 |
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院号 | 本誓院 |
寺号 | 勝願寺 |
本尊 | 不動明王像 |
住所 | 鴻巣市登戸369 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
勝願寺の縁起
勝願寺は、文永元年記主禅師(然阿良忠上人)が浄土宗寺院として創建したと伝えられます。記主禅師は浄土宗第二祖で後嵯峨院・後深草院の御授戒の師で、北条経時の帰依を受けたという名僧で、鎌倉光明寺を創建、その折に当地箕田郷を寺領として拝領、その折に師の法名(勝願院良辺僧都)より名付けた当寺を創建したといいます。江戸時代に入り、慶安元年(1648)には徳川家光より寺領10石の御朱印状を受領、当時住していた僧円慶が真言宗僧だったことから、真言宗勝願寺として再建したといいます。
新編武蔵風土記稿による勝願寺の縁起
勝願寺
新義真言宗、箕田村龍珠院末、松岡山本誓院と号す。相傳ふ当寺は文永元年記主禅師の草創にして、始は浄土宗なり。故に白旗二流祖定慧良誉の古墳当所にあり。然るに天上年中不残上人寺を鴻巣宿へ移して、記主の住せし居宅一宇のみ其跡に残せしゆへ、村民福島氏の人これを預りて、諸宗の道心者替る替る住けるに、台徳院殿当所の古跡たることをきこしめし及ばせ玉ひて、寺領10石の御寄附ありしより再び堂舎を造営して旧に復せり。此時住居せし僧円慶真言宗なりしかば、そのまま龍珠院の末に属して、今の宗門に改めしと云。円慶は元和6年5月5日寂せり。本尊不動を安置す。
弥陀堂。
稲荷社。
弁天社。(新編武蔵風土記稿より)
境内掲示による勝願寺の縁起
当山は松岡山本誓院勝願寺と号し、真言宗豊山派(本山は奈良の長谷寺)に属する寺院である。開山は浄土宗第二祖の然阿良忠上人(後嵯峨院・後深草院の御授戒の師であり鎌倉幕府の執権北条経時の帰依も受けた高僧)である。
起源は良忠上人が鎌倉光明寺を創建したとき寺領として当所箕田郷を賜った折、正元元年(1259年、寺伝では弘安年間1278-1287年)ここに一寺を建立し、寺号を上人のかつての師勝願院良辺僧都の徳を偲び勝願寺とした。故に当時は浄土宗であった。
その後戦国時代の戦乱の中、寺勢は衰退し星霜を重ねたが徳川家康が当山の由緒あることを知り、寺領10石の朱印状を賜ったので伽藍の復興をみたのである。
元和2年(1616)真言僧の十五世円慶上人が当山に入り真言宗に転派、本尊を不動明王とした。現在の本堂は延享2年(1745年)の建設と云う。
当時の屋根は茅葺きであったが、二百年余の風雪に耐え昭和33年トタン葺きとして葺替工事を行うも、近年腐食老朽化が著しく、今般総代役員と共に相協議し、堅牢且つ耐久性のある銅板葺きに一新したものである。
ここに当寺の沿革を記し後世に伝うものである。(境内本堂屋根全面改築工事記念碑より)
勝願寺所蔵の文化財
- 六地蔵板石塔婆(鴻巣市指定考古資料)
六地蔵板石塔婆
板石塔婆は鎌倉時代から室町時代にかけて盛んに造立された板状石製の供養塔である。材石は秩父青石(緑泥片岩)であることから、青石塔婆・板碑などとも呼ばれる。
この板石塔婆は南北朝時代の康安(北朝年号)2年(1362)の造立で、高さ約130cm、幅約50cm。種子(主尊)は欠けているが、塔身部に六体の同じ姿の地蔵菩薩が陰刻されている。
平安時代から起こった地蔵信仰による板石塔婆で地蔵尊を刻んだ板石塔婆はあまり例を見ない。
六体とも左手に宝珠、右手に錫杖を持ち、どこにでも行って庶民の苦を救い幸福をもたらしてくれる。これが民衆に親しまれた「お地蔵さん」の姿であった。この板石塔婆は、地蔵信仰が当時すでに民衆にゆきわたり、定着していたことを物語る貴重なものである。(鴻巣市教育委員会掲示より)
勝願寺の周辺図