千形神社。千形相撲発祥の地
千形神社の概要
千形神社は、熊谷市本町にある神社です。千形神社の創建年代は不詳ですが、永治年間(1141-1142)に熊谷直貞が大きな熊を退治した際に血が流れた地に当社を創建したと伝えられ、血形明神と称していたといいます。宝暦年間(1751-1764)より千形神社境内で、千形相撲という草相撲が続けられていたといいます。
社号 | 千形神社 |
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祭神 | 天津彦火瓊瓊杵命 |
相殿 | 天児屋根命、天太玉命 |
境内社 | - |
祭日 | - |
住所 | 熊谷市本町1-18 |
備考 | 千形相撲 |
千形神社の由緒
千形神社の創建年代は不詳ですが、永治年間(1141-1142)に熊谷直貞が大きな熊を退治した際に血が流れた地に当社を創建したと伝えられ、血形明神と称していたといいます。宝暦年間(1751-1764)より千形神社境内で、千形相撲という草相撲が続けられていたといいます。
新編武蔵風土記稿による千形神社の由緒
(熊谷町)千形明神社
円照寺持。外に当山派修験萬光院と云もの社地に住して、社の事を進退す。(新編武蔵風土記稿より)
境内掲示による千形神社の由緒
千形神社境内の土俵は宝暦年間より近郷力士が千形相撲として毎年二百年の永く草相撲が続けられた相撲歴史発祥の地である。(境内掲示より)
「埼玉の神社」による千形神社の由緒
千形神社(熊谷市本町一-一八(熊谷字本町二丁目)
中山道の熊谷宿の中心として栄えた本町の守護神として祀られ、天津彦火瓊々杵尊を祭神とする当社の由緒は、熊谷の町の歴史とかかわりが深く、次のような話が氏子の問に伝わっている。
その昔、気の荒い大熊がこの地にいて、人々を悩ましていた。その熊を熊谷次郎直実の父親である直貞が退治したことによって、暮らしやすくなったので次第に大きな町になっていった。直貞は、殺した熊があまりにも大きかったので、熊の霊を慰めるために、その頭蓋骨を埋めた所に熊野権現を勧請して祀るとともに、熊の血が流れていった(飛んでいったともいう)所にも社を建て、血形明神と称して祀った。これが当社の起源である。
右の話にあるように、当社の社名は、初めは「血形」と書いていたが、いつのころからか「千方」と書くようになり、それが更に「千形」と書く急うになったという。なお「熊谷寺縁起」によれば、熊谷直貞による熊退治は、永治年間(一一四一-四二)のことと伝えられている。
江戸期においては、熊野権現杜と共に円照寺の持ちであったが、実際の社務は、当社の境内にあった当山派修験の万光院が行っていた。神仏分離の後、当社は明治七年二月に村社となったが、熊野権現社は無格社であったため、同四十年に高城神社へ合祀された。(「埼玉の神社」より)
千形神社の周辺図