髙城神社。延喜式式内社、熊谷七福神の大黒天
髙城神社の概要
髙城神社の創建年代は不詳ですが、延喜5年(905年)に作成された延喜式式内社に比定される古社です。江戸時代には忍藩主阿部豊後神忠秋公により、寛文11年(1671)社殿の寄附を受けた他、阿部家より多くの寄進を受け、現在熊谷市指定文化財として残されています。明治時代に入り村社に列格、ついで大正5年県社に列格していました。熊谷七福神の大黒天です。
社号 | 髙城神社 |
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祭神 | 高皇産霊尊 |
相殿 | - |
境内社 | 熊野神社、天神社(末社) |
摂社 | 白山大神、琴平大神、八幡大神、大国主大神、鹿島大神・香取大神、伊奈利大神 |
祭日 | 元旦1月1日、秋祭10月1・2・3日、春祭4月10日、酉の市12月8日、大祓6月30日など |
住所 | 熊谷市宮町2-93 |
備考 | 延喜式式内社、県社、もと別当:石上寺 |
髙城神社の由緒
髙城神社の創建年代は不詳ですが、延喜5年(905年)の縁起式式内社に指定された古社です。江戸時代には忍藩主阿部豊後神忠秋公により、寛文11年(1671)社殿の寄附を受けた他、阿部家より多くの寄進を受け、現在熊谷市指定文化財として残されています。明治7年村社に、大正5年には県社に列格していました。その間、明治40年には熊野神社を当社境内に遷座しています。
境内掲示による髙城神社の由緒
平安時代延喜5年(905年)約1070年前、宮中において延喜式、式内社に指定された、大変古い神社です。
現在の社殿は、寛文11年(1671)に忍城主、阿部豊後神忠秋公が厚く崇敬され遷宮された建物です。「えんむすび」「安産」の神であり、「家内円満」「営業繁栄」に導く神として崇敬されている。
新編武蔵風土記稿による髙城神社の由緒
(熊谷町)髙城神社
延喜式神名帳に、武蔵国大里郡高城神社と掲る者にして、祭神は高皇産霊尊なりと云。元は社地の内北の方なる御蔵屋敷と云処にありしが、寛文11年新に宮社を造りて、今の地に移し祀ると云。
末社。天神、稲荷。
神楽堂。
霊水。神木榎の側んる池なり。眼病を患るもの此水にて洗へば、立所に平癒せるとて、目洗水と号す。
社宝。麾一。軍配二。鏃一、柳葉の形にて、銘に奉寄進高城大明神国重と鐫る。以上阿部豊後守忠秋の寄附する処なり。
鉾一、貞享3年阿部志摩守正明、奉納の由を銘す。
刀一、天文18年戌3月吉日、廣国作と銘あり。寄附人の名を傳へず。
天国刀、寛延妙玄龍と云僧の寄附せしなり。天国寶刀記と云添状あり。其略に、余太曽祖村山次郎入道清久、当武州八王子の北に居城し、家世店国寶刀を蔵す。清久没し子清武の時、羽生城に依り居こと数年の後、寇兵の為に戦死す。二子あり。長は其名を失ひ、次を清昌と云、城の陥に及て、長男は家譜由緒を収て去て、清昌は此太刀を蔵して熊谷驛に隠棲し、其子清春、清春の子清次は、乃余が父なり。余出家して世嗣を絶しを以て、寶刀を高城大明神に奉る云々と載たり。
神主福井喜太夫、吉田家の配下なり。
別当石上寺。社地には住せず、宿の南にあるを以て、別に末に出す。
境内掲示による境内社熊野神社の由緒
熊野神社は、永治年間に熊谷次郎直実の父直貞が熊谷市箱田に熊野権現堂として創建したと伝えられます。江戸期には、千形神社、星ノ宮と共に円照寺を別当としていました。明治40年に当地へ遷座しています。
永治年間、此の付近一帯に猛熊が往来し庶民の生活を脅かし悩ました。熊谷次郎直実の父直貞この猛熊を退治して、熊野権現堂(現在箱田に熊野堂の石碑あり)を築いたと伝えられる。 明治維新の後、熊野神社と称し、その御祭神伊邪奈岐命を祭り、明治40年1月14日に当高城神社境内地に遷し祭られた。 また、同年4月20日に熊野神社社地62坪(現熊野堂敷地)を高城神社に譲与された。 この熊野神社(熊野権現)と千形神社(血形神社)そして円照寺の関係は深く、直実によって築かれ、熊谷の地名を産んだとも伝えられる。(境内掲示より)
髙城神社所蔵の文化財
- 蹴鞠用具(熊谷市指定文化財)
- オランダ古鏡(熊谷市指定文化財)
- 軍配2点、采配1点(熊谷市指定文化財)
- 熊谷町古絵図(熊谷市指定文化財)
- 常夜燈(熊谷市指定文化財)
髙城神社の周辺図