四ツ山城跡。比企郡小川町高見にある旧跡・名所

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四ツ山城跡。增田重富の居館跡

四ツ山城跡の概要

四ツ山城跡は、比企郡小川町高見にある名所旧跡で、高見城跡とも呼ばれます。四ツ山城跡は、北側に荒川、南側に市野川で挟まれた地域で、西側の鉢形城、東側の松山城を結ぶ交通の要衝地に位置しています。城(砦)として築造された時代は不詳ながら、太田道灌書状写(文明12年1480年)に「高見在陣衆」とあることから、このころには「陣」として利用され、室町時代の武人增田重富(長享元年1487年没)は、当地に居館を置いていたとされ、重富没後の翌年(長享2年1488年)には当地麓で高見原合戦が行なわれていました。小田原北條の役に際しては、鉢形城主北条北條の家人が当地に籠ったものの、闘わずに鉢形へ退却したといいます。

四ツ山城跡
四ツ山城跡の概要
旧跡・名所名 四ツ山城跡
区分 埼玉県指定史跡
入場時間 -
入場料 -
住所 比企郡小川町高見1125
備考 -




四ツ山城跡の縁起

四ツ山城跡は、北側に荒川、南側に市野川で挟まれた地域で、西側の鉢形城、東側の松山城を結ぶ交通の要衝地に位置しています。城(砦)として築造された時代は不詳ながら、太田道灌書状写(文明12年1480年)に「高見在陣衆」とあることから、このころには「陣」として利用され、室町時代の武人增田重富(長享元年1487年没)は、当地に居館を置いていたとされ、重富没後の翌年(長享2年1488年)には当地麓で高見原合戦が行なわれていました。小田原北條の役に際しては、鉢形城主北条北條の家人が当地に籠ったものの、闘わずに鉢形へ退却したといいます。

境内掲示による四ツ山城跡について

四ツ山城跡
四ツ山城跡は、周囲から一際高くそそり立つ山頂に立地し、北は荒川流域一帯、南は市野川流域を一望できる要害の地に築かれています。市野川筋にはいわゆる鎌倉街道上道が走り、戦国時代には鉢形城(寄居町)と松山城(吉見町)の間にあって、交通路を押さえる重要な役割を果たしていたと考えられます。
城跡は細長い尾根を巧みに利用し、四津山神社の建つ本郭と北に連なる三つの主要な郭によって構成され、それぞれ土塁と堀切によって画されています。
文明十二年(一四八〇)の太田道灌書状写に「高見」「高見在陣衆」とあることから、このころに城が整備された可能性があります。長享二年(一四八八)に山内・扇谷両上杉氏の対立により激戦が繰り広げられた高見原合戦は、この麓の高見・今市付近で行われたと考えられています。
また江戸時代に編纂された『新編武蔵風土記稿』は、長享元年に没した増田四郎重富の居城と伝えています。『関八州古戦録』によると、天正十八年(一五九〇)の豊臣秀吉による関東平定の際に鉢形城主北条氏邦の家人が籠ったものの、戦わずして鉢形城へ逃げたといいます。(小川町教育委員会掲示より)

新編武蔵風土記稿による四ツ山城跡について

(高見村)
增田重富居蹟
坤の方にあり、其所を四ツ山と呼ぶ、爰は增田四郎重富と云し人の居蹟と云傳ふるのみ、其事蹟詳ならず、されど男衾郡野原村文殊寺に、重富の塚あり、法名傑山英公と號す、長享元年二月三日卒せしと云り、又橘樹郡下作延村圓福寺條に、開基增田駿河守満榮永禄元年六月十六日卒せりと、又【尾粟原役帳】にも小机作延七十貫文增田某とあり、是等もし增田重富の末裔なりや、今よりは知べからず、(新編武蔵風土記稿より)


四ツ山城跡の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」