菅谷館跡。国指定史跡比企城館跡群
菅谷館跡の概要
菅谷館跡は、比企郡嵐山町菅谷にある名所旧跡です。菅谷館跡は、鎌倉時代の有力御家人畠山重忠の居館跡で、源平合戦で活躍した畠山重忠が、源頼朝から菅谷領を受領し、本貫地(深谷市畠山)から当地に転居た際に築いた城館で、その創建は寿永元年(1182)とも伝えられます。畠山重忠は二俣川の合戦で討死しますが、長享(1487-1489)の乱に際しては太田源六資康の陣営が当地に置かれていました。現在の遺構は、本郭・二ノ郭・三ノ郭と土塁・空堀など戦国時代に築造されたもので、昭和48年国史跡に指定され、さらに平成20年には、杉山城跡・東松山城跡・小倉城跡と共に比企城館跡群の一部「比企城館跡群菅谷館跡」と名称変更しています。
旧跡・名所名 | 菅谷館跡 |
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区分 | 国指定史跡 |
入場時間 | - |
入場料 | - |
住所 | 比企郡嵐山町菅谷字城 |
備考 | - |
菅谷館跡の縁起
菅谷館跡は、鎌倉時代の有力御家人畠山重忠の居館跡で、源平合戦で活躍した畠山重忠が、源頼朝から菅谷領を受領し、本貫地(深谷市畠山)から当地に転居た際に築いた城館で、その創建は寿永元年(1182)とも伝えられます。畠山重忠は二俣川の合戦で討死しますが、長享(1487-1489)の乱に際しては太田源六資康の陣営が当地に置かれていました。現在の遺構は、本郭・二ノ郭・三ノ郭と土塁・空堀など戦国時代に築造されたもので、昭和48年国史跡に指定され、さらに平成20年には、杉山城跡・東松山城跡・小倉城跡と共に比企城館跡群の一部「比企城館跡群菅谷館跡」と名称変更しています。
境内掲示による菅谷館跡について
比企城館跡群
菅谷館跡は、鎌倉時代の有力御家人である畠山重忠が文治2年(1187)までには住居していたといわれる中世の重要な遺跡です。
元久2年(1205)、武蔵国二俣川の合戦の際、重忠はこの館から出発したことが鎌倉幕府の記録「吾妻鏡」に書かれています。また、室町時代の漢詩文集「梅花無尽蔵」によると、長享2年(1488)に山内上杉氏と扇谷上杉氏が須賀谷原で戦い、戦死者七百人、馬は数百匹が倒れたと記され、この菅谷城付近で激しい戦いがあったことを伝えています。
現在の遺構は、本郭、二ノ郭、三ノ郭などと、それらを防御する土塁、空堀などからなり、このような姿になったのは、戦国時代のことと考えられます。
昭和48年(1973)5月、関東の有力豪族である畠山氏の館に起源をもつ城館跡として国の史跡に指定され、平成20年(2008)3月には比企城館跡群菅谷館跡と名称が変更されました。(埼玉県教育委員会掲示より)
新編武蔵風土記稿による菅谷館跡について
(菅谷村)
古城蹟
凡三丁四方の地にして、南の一方は都幾川をもて要害とし、其餘の三方は空壳ありて、所々に堤の形殘れり、其内は總て陸田となりたれど、今も本丸・二丸・三丸等の名あり、【梅花無盡蔵】に云、長享戊申年八月十七日入須加谷之地平澤山間太田源六資康之軍營と、此邊に平澤村あれば、須加谷はこゝのことなるべければ、此頃は太田氏の陣營なりしこと知らる、又【東路土産】に鉢形を立て、須加谷と云所に、小泉掃部助の宿所に、逗留云々とあり、今も當所より上州に至るに、小川鉢形と人馬を次で順路なれば、此書に載たる小泉が宿所も當所のことなるべし、又こゝを畠山重忠居城の地ともいへ、後岩松遠江守義純一旦畠山が名称を續て、爰に住せしなどいへり、されば重忠晩年當所に移りしことしらる、【東鑑】元久二年六月二十二日の條に、重忠十九日小衾村菅谷を出て云々とあれば、全くこの地のことにして、郡名はたまたま訛り書せしにや、男衾郡畠山村古城蹟の條と参考すべし、(新編武蔵風土記稿より)
菅谷館跡の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」
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