小倉城跡。国指定史跡比企城館跡群
小倉城跡の概要
小倉城跡は、比企郡ときがわ町田黒にある名所旧跡です。小倉城跡は、戦国時代の山城で、居城主は小田原北条氏の重臣遠山氏(或いは松山城主上田氏)とされます。城として機能していた頃は、「居館と目される大福寺平場とその背後に展開する梯郭式の要害部から構成される根小屋式山城」だったとされ、大福寺には、遠山衛門大夫藤原光景夫人の所持していた位牌が残されています。遠山衛門大夫藤原光景が天正15年(1587)没後、城主不明ながら、豊臣秀吉の小田原城攻略に際して天正18年(1590)落城しています(田黒日枝神社)。
旧跡・名所名 | 小倉城跡 |
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区分 | 国指定史跡 |
入場時間 | - |
入場料 | - |
住所 | 比企郡ときがわ町田黒 |
備考 | 駐車場は大福寺地を供用 |
小倉城跡の縁起
小倉城跡は、戦国時代の山城で、居城主は小田原北条氏の重臣遠山氏(或いは松山城主上田氏)とされます。城として機能していた頃は、「居館と目される大福寺平場とその背後に展開する梯郭式の要害部から構成される根小屋式山城」だったとされ、大福寺には、遠山衛門大夫藤原光景夫人の所持していた位牌が残されています。遠山衛門大夫藤原光景が天正15年(1587)没後、城主不明ながら、豊臣秀吉の小田原城攻略に際して天正18年(1590)落城しています(田黒日枝神社)。当地周辺で産出される緑泥片岩を使った総延長150m以上、最大高5mの布積み石垣が残され、菅谷館跡、杉山城跡・東松山城跡と共に比企城館跡群として国史跡に指定されています。
境内掲示による小倉城跡について
小倉城跡について
戦国時代の山城で、外秩父の山地と関東平野の境に位置します。周囲は蛇行する槻川と山地が入り組み、山や川を土塁と堀に見立て、自然地形を巧みに取り込んだ天然の要害の中心にあります。遺構は居館と目される大福寺平場とその背後に展開する梯郭式の要害部から構成される根小屋式山城となっています。城の最大の特徴は布積みを基調とした総延長150m以上、最大高5mに及ぶ大規模な石垣遺構で、中規模山城としては東日本有数のものです。周辺は緑泥片岩などの一大産地であり、その特性をいかんなく発揮したものと言えます。伝承される城主は「新編武蔵風土記稿」では小田原北条氏の重臣、遠山氏とされ、「武蔵誌」では松山城主上田氏と言われています。(ときがわ町教育委員会掲示より)
新編武蔵風土記稿による小倉城跡について
(田黒村)
城蹟
北の方にて小名小倉の内にあり、遠山右衛門大夫光景が居城の蹟なりと云、四方二町許の地にして、東北の二方は都幾川・槻川の二流に臨み、西南は山に添ひて頗る要害の地なり、光景は隣村遠山寺の開基檀越にして、天正十五年五月卒せし人なれば、爰に住せしも元龜・天正の頃なるべし、(新編武蔵風土記稿より)
小倉城跡の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」
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