加茂神社。山城国一宮の賀茂別雷神社を勧請
加茂神社の概要
加茂神社は、さいたま市北区宮原町にある神社です。加茂神社の創建年代等は不詳ながら、山城国一宮の賀茂別雷神社を勧請して創建したものだといい、江戸期には加茂宮村の鎮守社だったといいます。明治6年村社に列格、明治40年大字加茂宮字中道の無格社稲荷社、字鍛冶の無格社稲荷社、字四分一の無格社稲荷社・同境内社稲荷熊野合社、字中島の無格社稲荷社、字構の無格社天神社、明治41年字原殿の無格社稲荷社を合祀しています。
社号 | 加茂神社 |
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祭神 | 別雷神 |
相殿 | - |
境内社 | 三峰社 |
住所 | さいたま市北区宮原町4-8-1 |
祭日 | 夏祭り7月15日 |
備考 | 旧村社 |
加茂神社の由緒
加茂神社の創建年代等は不詳ながら、山城国一宮の賀茂別雷神社を勧請して創建したものだといい、江戸期には加茂宮村の鎮守社だったといいます。明治6年村社に列格、明治40年大字加茂宮字中道の無格社稲荷社、字鍛冶の無格社稲荷社、字四分一の無格社稲荷社・同境内社稲荷熊野合社、字中島の無格社稲荷社、字構の無格社天神社、明治41年字原殿の無格社稲荷社を合祀しています。
新編武蔵風土記稿による加茂神社の由緒
(加茂宮村)
加茂社
村の鎮守にて吉祥院の持なり、社邊に古杉數株ありて、土地のさま舊社とは見ゆれど、勧請の年代詳ならず、相傳へて足立神社なるべしと云説あれど、正しき證佐なければうけかひがたし、足立神社をいかなるゆへにてかく改しや、かたかた信じがたき説なり、式に載たる足立神社は、植田谷本村に立るをもて正しとすべし。
牛頭天王社
天神社
八幡社
稲荷社
以上四社は村民の持。 (新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による加茂神社の由緒
加茂神社<大宮市宮原町四-八-一(加茂宮字松原)>
当地は『風土記稿』によると、「昔より加茂社の建る地なれば、ただちに村名とす」とあり、また、天正十年(一五八二)の『成田分限帳』に「三十六貫文武州加茂宮多門兵衛」と載せる。
当社は、加茂宮村を縦貫する中山道の側に鎮座する。江戸期の浮世絵師、渓斎英泉の描いた「木曾街道上尾宿」の図には、緑深い森の中から「加茂大明神」の幟旗が掲げられている。
創建年代は不詳であるが、山城国一宮の賀茂別雷神社を勧請したものと伝える。『風土記稿』は、当社を『延喜式』神名帳記載の足立神社とする説があるが正しき証左なしと否定している。
別当は、真言宗吉祥院で、雙樹山大恵寺と号す。本尊は薬師如来像を奉安する。
『明細帳』によると、明治六年四月に村社となり、同四十年五月、大字加茂宮字中道の無格社稲荷社、字鍛冶の無格社稲荷社、字四分一の無格社稲荷社・同境内社稲荷熊野合社、字中島の無格社稲荷社、字構の無格社天神社、同四十一年七月、字原殿の無格社稲荷社を合祀した。
大正八年十月、拝殿は焼失したが本殿の類焼は免れた。本殿は一間社流造り、壁面には賀茂雷神社の神事である「競べ馬」の図が彫られている。なお、境内にある文政十年(一八二七)八月の石灯籠には、「御遷宮本社再建立」とある。(「埼玉の神社」より)
加茂神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)