大門神社。さいたま市緑区大門の神社

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大門神社。旧称十二所権現社、宿場町大門宿の鎮守

大門神社の概要

大門神社は、さいたま市緑区大門にある神社です。大門神社の創建年代等は不詳ながら、旧大門村、下野田村の鎮守の神として古くより下野田に鎮座していたといいます。江戸期には十二所権現社と称し、宿場町大門宿の鎮守社だったといい、明治6年には村社に列格、明治40年大門宿内の無格社八社と大字玄蕃新田の村社木傘神社大字下野田の村社稲荷社の計十社を合祀、大門神社と改称したといいます。

大門神社
大門神社の概要
社号 大門神社
祭神 天神七代之大神、地神五大之大神
相殿 -
境内社 愛宕社、御嶽社、浅間社、天神社、稲荷社
住所 さいたま市緑区大門2933
祭日 -
備考 -



大門神社の由緒

大門神社の創建年代等は不詳ながら、旧大門村、下野田村の鎮守の神として古くより下野田に鎮座していたといいます。江戸期には十二所権現社と称し、宿場町大門宿の鎮守社だったといい、明治6年には村社に列格、明治40年大門宿内の無格社八社と大字玄蕃新田の村社木傘神社大字下野田の村社稲荷社の計十社を合祀、大門神社と改称したといいます。

新編武蔵風土記稿による大門神社の由緒

(大門宿)
十二所権現社。村の鎮守なり。別当華厳寺。新義眞言宗宿内大興寺門徒、熊野山寶光院と號す、開山源盛寛永元年十一月三日寂せり、本尊不動を安ず。
牛頭天王社。
辨天社。
稲荷社。當社は小名西方の鎮守なり、以上三社は村民の持。
浅間社。大興寺の持
稲荷社。多門寺の持
神明八幡春日合社。華厳寺の持
圓福寺。同宗、宿内大興寺門徒、醫王山東光院と號す、本尊不動を安す、開山永清文禄二年三月五日寂す。薬師堂。薬師は長一尺餘、坐像にて行基の作と云。愛宕社。太子堂。
(下野田村)
稲荷社圓徳寺持。
(玄蕃新田)
木傘明神社。村の鎮守にして、祭神は日本武尊なりといふ。末社。稲荷社、辨天社。(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による大門神社の由緒

大門神社<浦和市大門二九三三(大門字東裏)>
日光御成街道の江戸日本橋から数えて四番目の宿場である大門町は、中世から鎌倉街道中道の道筋として発展し、毎月八の日に市が立った。この市については、戦国期の成立とされる「市場之祭文写」に「足立郡大門市祭成之」と記されており、市を開くに当たり修験者により無事息災と繁盛を祈って祈願文が読み上げられたことがわかる。
当社は、この大門町の鎮守として祀られてきた神社で、『風土記稿』大門宿の項に「十二所権現社 村の鎮守なり」とあるように、かつては十二所権現社といったが、明治四十年六月十四日に地内の無格社八社と大字玄蕃新田の村社木傘神社・大字下野田の村社稲荷社の計十社を合祀したことにより、改称したものである。往時の社名は熊野十二所権現に由来すると思われ、本山派修験として勢力のあった中尾村(現浦和市中尾)の玉林院の活動が創立の背景にあったと考えられる。
江戸時代には、真言宗の熊野山宝光院華蔵寺が当社の別当で、明治五年に廃寺になるまでは参道西側に堂があった。開山の源盛は寛永元年(一六二四)に寂している。その末裔は当社隣の熊野家である。
境内の愛宕神社は、元禄年中(一六八八~一七〇四)の創立で当時大門宿に大火があり、過半数の家々が焼失したことから、里人が相計って火防の神である愛宕様を勧請し、円福寺境内の小高い丘に祀ったと伝えられる。明治五年の円福寺廃寺に伴い、当社に移された。(「埼玉の神社」より)

境内掲示による大門神社の由緒

大門神社は住吉十二所社と称し旧大門村、下野田村の鎮守の神として下野田に鎮座せしものと伝ふれどその記録または、旧蹟等も認められずに、古来より現今の神域に鎮座せしものと推考される。
明治初年、神仏分離令により、明治六年四月大門村村社に列せられる。
明治四十年六月十四日大字大門地内、下野田地内、玄蕃新田地内に鎮座せる神社(十社)を合祀し、以って十二所社の社号を宗教法人大門神社と改称す。(境内掲示より)


大門神社の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)