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浄安寺。さいたま市岩槻区本町にある浄土宗寺院

浄安寺の概要

浄土宗寺院の浄安寺は、快楽山微妙院と号します。浄安寺の創建年代等は不詳ながらかつては真言宗寺院だったといいます。増上寺5世天譽上人光蓮社了聞が、永正2年(1505)浄安寺を浄土宗に改めて開山、慶長7年(1602)には寺領62石の御朱印状を拝領したといいます。徳川忠輝が改易した際には、その妻子は岩槻藩主阿部家に預けられ、死後当寺に葬られたといいます。当寺には「漂客紀事」・「徳教篇」の版木や、児玉南柯の墓など数多くの文化財が所蔵されています。

浄安寺
浄安寺の概要
山号 快楽山
院号 微妙院
寺号 浄安寺
住所 さいたま市岩槻区本町5-11-46
宗派 浄土宗
本尊 -
葬儀・墓地 -
備考 -



浄安寺の縁起

浄安寺の創建年代等は不詳ながら、かつては真言宗寺院だったといいます。増上寺5世天譽上人光蓮社了聞が、永正2年(1505)浄安寺を浄土宗に改めて開山、慶長7年(1602)には寺領62石の御朱印状を拝領したといいます。徳川忠輝が改易した際には、その妻子は岩槻藩主阿部家に預けられ、死後当寺に葬られたといいます。

新編武蔵風土記稿による浄安寺の縁起

(澁江町)浄安寺
浄土宗、京都知恩院の末、快楽山微妙院と號す、本尊彌陀を安ず、當寺往昔は眞言宗なりしが、いつの頃にか廢せしを、永正二年天譽了聞再び開きて、今の宗に改めたり、故に了聞を以て開山となせり、【浄土宗傳燈總系譜】云、天譽上人光蓮社了聞明應元年増上寺に住し、第五世となり、又同じ明應中足立郡花又村に於て、實性寺を建て彼所に退隠すと、寺傳に了聞は信州伊奈郡高遠の人にて、父は飯田監物直明と號し、母は野澤氏の女なり、始め禅林に入り、後に了譽聖冏上人の門に入て改宗し、明應元年江戸増上寺に住し、永正二年當寺を開き、同じ年七月八日示寂すと、又天文年中當寺の住僧縁譽稱念自行のために、新に三十六珠の貫輪珠と云ものを初て製し、今も浄門にてはこれを用ゆと云、寺領六十二石餘は慶長七年十一月賜はれり、寛永年中越後少将忠輝卿の嫡、徳松殿・同母堂見相院共に、時の城主阿部對馬守へ預けたまひしが、見相院は寛永九年四月十三日卒す、同五月廿七日徳松殿卒去、相生院殿明譽珠光清空大禅定門と謚し、共に當寺に墳墓あり、又天正年中太田氏房より與へし文書は、貞享年中火災にかかり、今は寫を蔵せり、左に載す
當寺並末寺役等不入之事、自今以後不可有相違者也、仍如件、
天正十五年丁亥十月十八日 氏房
浄安寺
東照宮。慶長五年奥州御征伐の時、此寺に御一宿あらせられし御由緒をもて、御宮を勧請し奉れりと。
閻魔堂。
鍾樓。安永九年の鑄造なり。
塔頭、浄心庵、天祟庵、西光庵、西心庵。(新編武蔵風土記稿より)


いいお墓

浄安寺所蔵の文化財

  • 浄安寺の円空仏二躯(さいたま市指定有形文化財)
  • 木造阿弥陀如来立像一躯(さいたま市指定有形文化財)
  • 「漂客紀事」及び「徳教篇」版木二件(さいたま市指定有形文化財)
  • 児玉南柯の墓(さいたま市指定史跡)
  • 高力清長・徳松丸・竹の局の墓及び供養塔(さいたま市指定史跡)

浄安寺の円空仏二躯

江戸時代の僧・円空が作った仏像で、仏法を守護する「護法神立像」と華厳宗で説く求道の菩薩「善財童子立像」の二体が伝わっています。護法神立像は高さ八十七・六センチメートル。頭部は怒髪を高く逆立て、胸元で合掌する姿を表しています。善財童子立像は高さ百七・八センチメートル。合掌する童子の愛らしい表情を大胆な衣文を彫り出すことによって際立たせています。(宗教法人浄安寺・さいたま市教育委員会掲示より)

木造阿弥陀如来立像一躯

像高七十八・五センチメートル、ヒノキ材の寄木造りで、漆箔を張り、衣部分は、艶消しの技法を用いた上に、金箔を補足切って文様を描いています。顔貌や衣文線などに慶派の特徴が見られていることから、鎌倉時代の作と考えられます。市内における数少ない鎌倉仏として貴重です。(宗教法人浄安寺・さいたま市教育委員会掲示より)

「漂客紀事」及び「徳教篇」版木二件

児玉南柯が著した「漂客紀事」と「徳教篇」の版木です。前者は南柯が岩槻藩勝浦領郡奉行として行った、中国の難破船漂着事件処理のてん末記。後者は、儒教に基づく村民教化のために著したものです。
版木は、杉戸宿で薬商を営み、南柯と親交のあった内山周文が贈ったもので、菩提寺となった浄安寺に伝えられました。(宗教法人浄安寺・さいたま市教育委員会掲示より)

児玉南柯の墓

児玉南柯【延享三年(一七四六)〜文政十三年(一八三〇)】は、江戸時代後期の岩槻藩士で儒学者。藩の要職を歴任した後、私塾(後に藩校となる)「遷喬館」を開設して藩士等の子弟の教育にあたりました。文政十三年、病のため八十五歳で死去し、浄安寺に葬られました。(宗教法人浄安寺・さいたま市教育委員会掲示より)

高力清長・徳松丸・竹の局の墓及び供養塔

高力清長は江戸時代最初の岩槻城主。慶長十三年(一六〇八)に死去し、浄安寺に葬られました。徳松丸と竹の局は、徳川家康六男松平忠輝の子及び側室。忠輝改易後、岩槻藩主阿部家に預けられましたが、共に寛永九年(一六三二)に死去し、浄安寺に葬られました。(宗教法人浄安寺・さいたま市教育委員会掲示より)

浄安寺の周辺図

参考資料
  • 「新編武蔵風土記稿」