龍門寺。さいたま市岩槻区日の出町にある曹洞宗寺院

猫の足あとによる埼玉県寺社案内

龍門寺。佐枝(斎田)若狭守が居館内に創建

龍門寺の概要

曹洞宗寺院の龍門寺は、玉峯山と号します。龍門寺は、佐枝(斎田)若狭守(法名玉峯道全上座)が自らの館内に天文19年(1550)創建、格叟寅越(天正15年1587年寂)が開山したといいます。大岡忠光が岩槻藩主として宝暦6年(1756)に入封して以降、大岡家の菩提寺となったといいます。

龍門寺
龍門寺の概要
山号 玉峯山
院号 -
寺号 龍門寺
住所 さいたま市岩槻区日の出町9-67
宗派 曹洞宗
本尊 -
葬儀・墓地 -
備考 -



龍門寺の縁起

龍門寺は、佐枝(斎田)若狭守(法名玉峯道全上座)が自らの館内に天文19年(1550)創建、格叟寅越(天正15年1587年寂)が開山したといいます。大岡忠光が岩槻藩主として宝暦6年(1756)に入封して以降、大岡家の菩提寺となったといいます。

新編武蔵風土記稿による龍門寺の縁起

(澁江町)龍門寺
禅宗曹洞派、男衾郡寄居村正龍寺の末、玉峯山と號す本尊釋迦を安置す、開山格叟寅越天正十五年示寂、天文十九年斎田若狭守開基せりと云、若狭守が法謚を玉峯道全上座と號し、卒年は傳へず、按に足立郡花又村實性寺の開基斎田左兵衛尉賴康、大永元年七月二十三日卒せりと、彼寺の傳へに賴康は岩槻の城主雅楽頭某の子なりと、されど岩槻は其頃太田氏の居城にして、彼家系にも雅楽頭と云をのせざれば、恐くは若狭守も賴康の一族にして、大田氏の旗下なりしならん、今も太田家に斎田氏の家人あり。
不動堂。不動は慈覺大師の作、長二尺餘の立像なり。
烏瑟沙摩明王社
辨天社。(新編武蔵風土記稿より)

境内掲示による龍門寺の縁起

戦国時代の天文十九年(一五五〇)、小田原北条氏の重心佐枝若狭守が自らの館内に開創したのが龍門寺です。そのため、境内の西側と北側に残る土塁は佐枝氏の館の名残と云われており、山号の玉峯山もこの若狭守の法号に因みます。江戸時代には、幕府の祖・徳川家康を祀った日光東照宮に将軍が参詣する日光御成道に面するようになり、岩槻藩主大岡忠光の菩提寺としての歴史を刻んできました。(境内掲示より)


龍門寺所蔵の文化財

  • 刀無銘伝助真一口(国指定重要文化財)
  • 龍門寺所蔵資料一括(市指定有形文化財)
  • 龍門寺山門一棟(市指定有形文化財)
  • 大岡家の墓(さいたま市指定史跡)
  • 大岡忠光公行状記(市指定有形文化財)

刀無銘伝助真一口

長さ七十センチメートルあまり。銘は失われていますが、備前国(岡山県)の福岡一文字派の名工助真の作と伝えられています。豪壮華麗で、鎌倉時代中期の特徴を持っています。岩槻城主大岡忠光の遺品で、現在は埼玉県立歴史と民俗の博物館に寄託。(さいたま市教育委員会掲示より)

龍門寺所蔵資料一括

宝暦十年(一七六〇)に死去した岩槻藩主大岡忠光の墓誌のために、子の忠喜が、後に幕府を批判した思想書『柳子新論』を著した医師兼儒官・岩槻藩士山縣大弐に作成させた「大岡忠光行状記」や大岡忠光公関係甲冑その他や龍門寺の開基佐枝家関係資料、龍門寺経営資料など龍門寺に伝来した資料です。
現在は埼玉県立歴史と民俗の博物館、埼玉県立文書館に寄託。(さいたま市教育委員会掲示より)

龍門寺山門一棟

一間一戸で、柱が四本からなる薬医門形式。桁行約三・五メートル、梁間約二・四メートルを測ります。本柱は断面長方形の材の長辺を正面に据え、重厚な外観を創出しています。建立年代は明確ではありませんが、建築部材の絵様は江戸時代前半の特徴を示しています。なお、解体修理の際に、東側の破風登裏甲上面で寛政十年(一七九八)の墨書銘が発見されました。(さいたま市教育委員会掲示より)

大岡家の墓

江戸幕府側用人で、岩槻藩主大岡出雲守忠光(一七六〇年没)の墓です。扉に大岡家の家紋を配した瑞垣の中、石組の基壇上に上から空、風、火、水、地を表す巨大な五輪塔を据え、地輪の正面には「得祥院殿義山天忠大居士」、右側面には「武州岩槻城主従四品前雲州太守大岡氏藤原忠光之墓」と刻まれています。他にも明和事件の中心人物となる山縣大弐が関係した忠光の墓碑や石灯籠が残されています。
大岡家は三河以来の徳川家の譜代の幕臣で、一族の中からは名奉行として知られる大岡越前守忠相を輩出しました。
忠光は三〇〇石の旗本の家の生まれでしたが、その才能を発揮して、御側衆・御用御取次・若年寄(奥勤兼帯)、さらに側近ちょして最高職の側用人まで出世し、第九代将軍徳川家重近くに仕えて厚い信任を得、幕府政治を長い間動かしてきました。
宝暦元年(一七五一)には勝浦(千葉県)一万石の大名となり、その後加増が続き、宝暦六年には二万石の岩槻藩主となりました。
岩槻藩主としての忠光の在任期間は四年間と短く、幕政の中心人物として多忙を極めました。宝暦十年四月に亡くなり、後の側用人田沼意次ほか幕閣要人や諸大名が関与する中、僧侶五十人余による盛大な葬儀が当山で行われています。
明治維新まで続く岩槻藩主大岡家八代の基礎を作った名君で、幕藩体制の維持に尽力した忠臣でもありました。(さいたま市教育委員会掲示より)

大岡忠光公行状記

大岡忠光は、江戸幕府九代将軍徳川家重の寵臣として若年寄・側用人等の要職を務めた。宝暦六年(一七五六)岩槻城主に封ぜられ、藩領二万石、同十年歿するまで五年間、領下の支配に当った。山県大弐は宝暦四年以来忠光に仕え、よく輔弼の役も果したが、同十年四月、忠光が病歿すると致仕、のち明和の変に連座し死罪となった。
本書は、宝暦十年五月に、藩主忠喜が大弐に命じて、父忠光の頌徳の碑文を大学頭林信言に求めた際、大弐が主君忠光の系譜並びに略伝を叙して行状記としたものである。
内容は、大岡氏の先世から筆を起こし忠光の生涯の功業と事蹟や事に処しての恭謙な態度、並びに龍門寺に墓塋を定めた経緯等を簡潔な漢文体で叙述し、また文中には忠光を敬慕した大弐の心情を窺うことができる。寛政元年(一七八九)沼野武英は本書を和訳して「得祥院様御行状和解」を作った。(岩槻市教育委員会掲示より)

龍門寺の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」