石上神社。県指定天然記念物の入西のビャクシン
石上神社の概要
石上神社は、坂戸市北大塚にある神社です。石上神社は、『石上大明神縁起序』によると、嘉元2年(1304)に霊石を当地(氏神塚)に祀り創建したと伝えられます。また当社御神木のビャクシンは、臨済宗寺院で植樹されることから、当地はかつて成願寺境内だったとも推定されています。明治維新後の社格制定に際し明治5年村社に列格していました。ビャクシンは、埼玉県天然記念物に指定されています。
社号 | 石上神社 |
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祭神 | - |
相殿 | - |
境内社 | - |
祭日 | 春祈祷4月15日、秋祭り10月15日 |
住所 | 坂戸市北大塚138 |
備考 | - |
石上神社の由緒
石上神社は、『石上大明神縁起序』によると、嘉元2年(1304)に霊石を当地(氏神塚)に祀り創建したと伝えられます。また当社御神木のビャクシンは、臨済宗寺院で植樹されることから、当地はかつて成願寺境内だったとも推定されています。明治維新後の社格制定に際し明治5年村社に列格していました。
新編武蔵風土記稿による石上神社の由緒
(大塚村)
石上社
神體は長四尺、横一尺許の赤き石なり、相傳ふ此社地の下は、昔高麗川の流通せし所にて、此の神體は川中より出しものなりと云、かゝる石はいくばくも有べきものなるに、いかなれば殊更には祀りけん、其故を傳へず、今村の産神とす、社の建る所は登り二十間許なる丘の上なり、明學院持なり、
(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による石上神社の由緒
石上神社<坂戸市北大塚一三八(北大塚字坂上)>
当社は内陣に赤色紡錘形の自然石(一メートル五〇センチ)を祀る。
旧社家木下家文書『石上大明神縁起序』に「当社の由来は、当地には古くから氏神塚と呼ばれる塚があり、周囲に大きな淵があった。嘉元二年九月淵の中に夜な夜な光があり、村民が不思議に思って見ると魚が多く集まっている。網をおろすと魚は掛からず小さな石が上がり、これを本山修験広伝寺が占ってみると、この石を氏神として尊敬すれば氏子が繁栄するという。村民はこの石を氏神塚上に祀り、広伝寺は石に因み宝石山の山号を付けて別当となる。それまでは村中を大河が流れ農耕に支障があったが、村人が氏神に祈ると、或る時大水になり、流れは南に変わり百姓も繁栄し、寺も川の跡に移って隆盛になった。今の神体はこれである」と記す。
また、同家文書『勧化帳』(文久二年八月)には右の説話のほかに、「日本武尊東夷平定の時に神体石を蝦夷より持ち帰って祀る。役行者伊豆配流の時に氏神塚に一樹を植えて神と祀る」などが記され、また「秀吉の小田原攻めにより社が焼失し、その後長く社殿を再興出来なかったため、氏子は恐れ多いとして以来家の厠に屋根を葺かず、安永年間までこれを守ったという。安永年中神祇管領に願い社殿を設け、石神を石上大明神と称えて、以後厠に屋根を葺くようになった」とある。明治五年に村社となる。(「埼玉の神社」より)
石上神社所蔵の文化財
- 入西のビャクシン(埼玉県指定天然記念物)
入西のビャクシン
樹高十二メートル、幹回り約三・五メートル、直径約一メートルで、幹が右回りにねじれていることから、「ねじれっ木」と呼ばれて、大切にされています。昔、徳の高いお坊様が、地面に突き立てた杖が根付いたと伝えられています。
ビャクシンはヒノキ科ビャクシン属の常緑針葉喬木で、イブキ、イブキビャクシンなどと呼ばれています。
昭和六年に埼玉県の天然記念物に指定され、当時の入西村の地名をとって、「入西のビャクシン」と名付けられました。
ビャクシンは、臨済宗の寺院に多く植えられており、臨済禅宗と密接な関係にあったようです。現に湯河原の城願寺、北鎌倉の建長寺、川口の長徳寺などに見られます。
入西のビャクシンの近くにある成願寺は、臨済宗の僧乾峰士雲が開いたと伝わる寺です。乾峰士雲は、文和四年(一三五五)に鎌倉五山の建長寺・円覚寺の住職を兼ねた高僧でした。
現在、この地は、石上神社の境内になっていますが、もとは成願寺の境内だったと考えられます。
成願寺創建にちなんでビャクシンが植えられたとすれば、文和四年以後のことで、樹齢六五〇余年となると考えられます。
入西のビャクシンは、天然記念物としてだけでなく、歴史の証人としても生き続けているのです。(坂戸市教育委員会掲示より)
石上神社の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)