廣瀬神社。延喜式内社、広瀬囃子
廣瀬神社の概要
廣瀬神社は、狭山市広瀬にある廣瀬神社です。廣瀬神社の創建年代等は不詳ながら、広瀬郷経営の任に当たった者の勧請ではないかといい、延長5年(927)に作成された延喜式神名帳に記載されている式内社です。明治6年郷社に列格、明治7年には県社に昇格、明治40年に、字坂下の愛宕神社、同境内社の浅間社・字坂上の八幡神社・字宮地の稲荷神社・字下郷の神明神社を合祀しています。
社号 | 廣瀬神社 |
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祭神 | 若宇迦能売命 |
相殿 | 八街比古命、八街比売命、久那斗命 |
境内社 | 森稲荷社、八幡神社、霞神社 |
住所 | 狭山市広瀬2-23-1 |
祭日 | 春祭り(四月第一土曜・日曜日)、秋祭り(十月第三土曜・日曜日) |
備考 | 旧県社 |
廣瀬神社の由緒
廣瀬神社の創建年代等は不詳ながら、広瀬郷経営の任に当たった者の勧請ではないかといい、延長5年(927)に作成された延喜式神名帳に記載されている式内社です。明治6年郷社に列格、明治7年には県社に昇格、明治40年に、字坂下の愛宕神社、同境内社の浅間社・字坂上の八幡神社・字宮地の稲荷神社・字下郷の神明神社を合祀しています。
新編武蔵風土記稿による廣瀬神社の由緒
(上廣瀬村)
廣瀬神社
村の東南下宿にあり、當社のことは【延喜式】神名帳に武蔵國入間郡廣瀬の神社とあり、官社の説は前に辨ず、相傳ふ祭神は太田命倉稲魂命なりと、今祭るところは白髭明神なり、神體は束帶せる木の立像にて長一尺二寸、又本地佛のよし、徑り六寸四分の圓鏡中に鑄造せる佛像あり、像の左右に奉納武州高麗郡廣瀬郷大旦那、天正十年壬午九月吉日とえり像の下に景吉繁昌とあり、神體佛像上に圖す、社地一段一歩を除す、この餘林一段畠一段八畝あり、往古のことは更なり、今は僅に上下廣瀬村の鎮守にて、例祭九月十九日なり、社邊に竹樹生茂り中にも古木の大槻三株あり、是を神木とす、一は圍二丈、一は圍一丈五尺あまり、一は二丈六尺餘なり、是等を見て舊跡たることしるべし、別當寶蔵寺は社の西にあり。
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八幡社
西光寺持、下同。
神明社
稲荷社
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神明社
正覺院持、下同じ。
愛宕社
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稲荷社
信立寺の持。 (新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による廣瀬神社の由緒
廣瀬神社(狭山市上広瀬一六一二)(上広瀬字宮地)
当社は入間川北岸に鎮座している。社記によると景行天皇の御代、日本武尊東征の折、当地を流れる入間川が大和国広瀬河合の地によく似ていることから延喜式内廣瀬坐和加宇加乃賣命神社より、若宇迦能賣命を移し祀ったと伝えている。しかし、大和国の廣瀬神社は天武天皇四年(六七四)、小錦中間人達大蓋と大山中曾彌連韓犬を遣わして大忌神を広瀬の河合に祀り、以来祭りを竜田神社の風神祭と同時に毎年四月と七月の四日に行うのが例であったということから、その創始は日本武尊東征よりずっと後のことである。このため、当社の創立も天武天皇四年以降ということになる。
おそらく、当社は中央から広瀬郷経営の任に当たった者の勧請と思われる。これは当地が河川合流点の広い河瀬に当たり、地形的にも大和国広瀬の地と類似していることから、水利の便に富んだこの地で、水神及び作神として広瀬の大神を祀ったものであろう。
入間郡内で延喜式記載の神社、すなわち、入間郡五座のうち、廣瀬神社と称するのは当社である。地名の初見は和名抄にみえる広瀬郷と思われ、文徳実録嘉祥三年(八五〇)六月条に「詔以武蔵國鹿瀬神列官社」とある。この広瀬神は当社のことを示している。
祭神は、若字迦能賣命である。この神は字迦之魂神や豊受大神などと同神で食物を司る神である。
大和国の廣瀬神社の大忌祭は祝詞式に「御膳持たる若宇迦能賣命と御名は曰して」とあることから作神としての性格がうかがわれる。また、『風土記稿』によると「相伝ふ祭神は太田命倉稲魂命なりと、今祭るところは白髭明神なり、神体は束帯せる木の立像にて長さ一尺二寸」とある。
本殿内には、束帯の神像のはかに鋳造の懸仏があり、これには「奉納武州高麗郡廣瀬郷大旦那天正十壬午九月吉日諸旦那敬白」とあり、神仏習合時代の面影を留める。
別当は真言宗寿永山宝蔵寺で当社に隣接していた。この寺は高麗郡新堀村聖天院末で、一時、廣瀬神社の祭神に白髭明神が加えられたのもこの影響であると考えられる。文政六年一一月、宝蔵寺は火災に罹り、この時、境内を接していた当社も類焼し古記録をほとんど失った。
本殿は一間社流造りである。また、境内には神社施設としては珍しい太鼓楼がある。これは、高さ六・五㍍もある入母屋造り、瓦葺きの建物で、楼の上にある大太鼓が祭典に合わせて打ち鳴らされる。
郷社になったのは明治六年で、同七年には県社に昇格した。合祀は明治四〇年に行われ、字坂下の愛宕神社、同境内社の浅間社・字坂上の八幡神社・字宮地の稲荷神社・字下郷の神明神社を合祀した。また、霞神社は戦後の合祀で、国家に尽力した英霊を祀っている。(「埼玉の神社」より)
廣瀬神社所蔵の文化財
- 大欅二本(埼玉県指定天然記念物)
- 神輿一基(狭山市指定文化財)
- 広瀬囃子(狭山市指定無形民族文化財)
神輿一基
この神輿は、今からおよそ百四十年前の元治元年(1864)に当所の名主・清水寛右衛門宗宝により奉納されたもので、作者は当所の大工・横田長太夫です。
宝形造りで、全面黒漆塗り、四方の鳥居と垣及び内部は全面主漆塗りです。壁面の一部は浮き彫りで、金箔押しとなっています。下框や屋根の頂など随所に透かし彫りや毛彫りによる金銅板の金具がとりつけられています。
四方の垂木下には金銅板の飾り板と小さな円鏡数十個が玻璃の玉を通した金糸で綴られ、垂れ飾りとなっており、拡調が高く豪華絢爛な神輿です。
神輿並びに神輿殿建立の棟札があり、その中に次の墨書きがあります。
武刕高麗郡上廣瀬巴
別當 名主
社補 清水寛右衛門宗宝
元治期限甲子稔秋九月
大工 當所 横田長太夫(狭山市教育委員会・狭山市文化財保護審議会掲示より)
広瀬囃子
広瀬囃子は江戸末期の万延、文久のころ、「笛の佐平に鶯さえも唄を忘れて聞きほれる」と江戸末期に俗謡にまでうたわれた「佐平の笛」こと村木佐平と「天孤の喜十郎」こと飯島喜十郎らが中心になり、神田囃子を学んだことに始まるといわれています。
囃子は享保年間(一七一六~三五)に江戸の葛西郡香取明神を中心に神楽囃子として作り出され、文化、文政年間には近在に普及しました。現在埼玉県内に分布しているものを大別すると、江戸系統の葛飾囃子、神田囃子、上州系統の三手古囃子、それに本県独特の系統の秩父囃子の三系統があります。入間、比企地方には神田囃子が多く、その中でも広瀬囃子は、県内でも珍しい神田古囃子を受け継いでいます。
曲目は屋台、聖天、大馬、鎌倉、師調目、仁羽、などで六曲あり、使用楽器は大太鼓一、小太鼓二、鉦一、笛一となっています。
毎年、廣瀬神社の元旦祭、禅龍寺の節分会(二月三・四日)、廣瀬神社春祭り(四月第一土曜・日曜日)、秋祭り(十月第三土曜・日曜日)、広瀬浅間神社の火祭り(八月二十一日)などに奉納囃子がおこなわれています。(狭山市教育委員会・狭山市文化財保護審議会掲示より)
廣瀬神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿