龍圓寺。寂蓮法師(藤原定長)が創建、武蔵野三十三観音霊場
龍圓寺の概要
真言宗智山派寺院の龍圓寺は、龍岳山観喜院と号します。龍圓寺は、歌人としても著名で蓮花院を創建した寂蓮法師(藤原定長)が、建仁年間(1201-1204)千手観世音像を安置して創始、俊誉和上(宝永6年1709年寂)が中興したといいます。慶安2年(1649)には徳川家光より寺領15石の御朱印状を拝領しています。武蔵野三十三観音霊場20番、奥多摩新四国霊場八十八ヶ所41番、武州八十八所霊場75番です。
山号 | 龍岳山 |
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院号 | 観喜院 |
寺号 | 龍圓寺 |
住所 | 入間市新久717 |
宗派 | 真言宗智山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
龍圓寺の縁起
龍圓寺は、歌人としても著名で蓮花院を創建した寂蓮法師(藤原定長)が、建仁年間(1201-1204)千手観世音像を安置して創始、俊誉和上(宝永6年1709年寂)が中興したといいます。慶安2年(1649)には徳川家光より寺領15石の御朱印状を拝領しています。
新編武蔵風土記稿による龍圓寺の縁起
(新久村附新田)龍圓寺
新義真言宗、高麗郡新堀村聖天院の末、龍岳山観喜院と號す、寺領十五石は境内の観音堂料に玉ひしよし、慶安貞享中の御朱印には高麗郡入小谷田村とあり、按に此村高麗郡に接し、當寺の領は正しく此村内にあれば、偶高麗郡と書せしにや、されど當村正保の頃も今の如き村名なるを、夫より後入小谷田と書せしはいかなる故にや詳ならず、彼観音堂のある處は字田谷といへば、若くは古名入小谷田と稱せしを、何の頃よりか誤て田谷と唱へしには非ずや、近村小谷田村とは別なるべければ、とかく辨じがたし、開山開基は詳ならず、中興を俊譽と云、寶永六年示寂す、撞鐘一口を本堂の軒に掛く、銘は享保中のものなればのせず、本尊は虚空蔵なり。
観音堂。観音は金の立像にて長三寸許、この観音は小名田谷にある古井より出し由と傳へり。(新編武蔵風土記稿より)
入間市掲示による龍圓寺の縁起
真言宗の寺院で龍岳山歓喜院と称し、本堂を正面に、右に庫裏、左に観音堂、鐘楼、観音堂前左に大師堂及び日切・子育両地蔵尊の別堂がある。
開山開基については、はっきりしたことがわからない。寺伝によると、建仁年間(一、ニ〇一~四年)の頃、寂蓮法師が武蔵国を巡礼の折、ここに千手観世音像を安置したのが始まりという。宝永六年(一、七〇九年)になくなられた俊誉和上が中興となっている。なお、本堂安置の本尊は虚空蔵菩薩である。
鐘楼には、かつて、享保年間(一、七一六〜三四年)製作銘のある梵鐘があったが、戦時供出で失っている。現在の梵鐘は、昭和二十三年に新しくかけられたものである。
慶安二年(一六四九年)には、徳川家光より御墨付きの朱印状(寺領十五石)を与えられ、現在、寺宝の古文書として保存されている。
明治三十四年春、灰燼と化した観音堂が大正三年に再建され、昭和四十二年以降、本堂ほかの緒堂も整備された。由緒ある観音堂は、子安、子育ての観音として常に参詣者が多い。
なお、当寺境内の庭前には、巨石を配して、「北狭山茶場の碑」(市指定)が立っている。これは、茶業が本県の重要産業にまで発展したのを記念にしたもので、市内にある茶場碑のなかでは新しいものの一つで、昭和十二年に造立された。碑は根布川石で約三メートルを数える。また、観音堂裏の石積みは、平成記念として墓地整備をした折のものである。(入間市掲示より)
龍圓寺所蔵の文化財
- 新久はやし(市指定無形民俗文化財)
- 「北狭山茶場の碑」(市指定文化財)
新久はやし
新久はやしは神田ばやし隠岐流の系統で、江戸が発達するにしたがって交流が盛んになり、商人や職人などが行き来するうちに習い覚えて伝えられたといわれている。
このおはやしは、毎年七月二十一日、二十二日に近い土曜日・日曜日に行なわれる八坂神社例祭の天王祭と、八月十六日・一月十六日の千手観音祭に奉納される。
天王祭は御神体を祭典場の仮宮にお迎えし、みこし、やぐら、屋台など行列をつくって村内を回り、区ごとに設けられた神酒処にみこしをお迎えし、村内の安泰、五穀豊穣を祈念し御神体をお送りしてお祭りは終わる。(入間市教育委員会・入間市文化財保護審議委員会掲示より)
八木謙斎
八木謙斎
寛政六年(一七九四)〜明治十四年(一八八一)
新久の旧家黒米源兵衛の長男として生まれ、源左衛門周恭と称したが、明治以降は謙斎と名のった。八木という名字は黒米の「米」の字を二つに分けてつけたもの。江戸時代に織物業を指導して土地の産業を盛んにし、明治になると八坂神社の神主を勤めながら歌、書、華道の文芸趣味に優れた才能を発揮した。
謙斎翁は文政年間(一八一八〜一八三〇)に京都西陣織の進んだ高機を見て帰り、苦心して高機織機を工夫し、さらに綿糸を縦糸を横糸とした縞織(後に川越唐桟とよばれる)を発案した。その後さらに西洋の糸を入れて混ぜ合わせて織る双子織を始め、郷土の発展に尽くした。
翁は明治十四年二月に米寿を祝われ、同年九月十日に永眠した。翁の墓碑の裏には「雪の雁 たった処に もどりけり」と辞世の句が刻まれている。(入間市教育委員会掲示より)
龍圓寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿