中富神明社。所沢市中富の神社

猫の足あとによる埼玉県寺社案内

中富神明社。三富新田の鎮守

中富神明社の概要

中富神明社は、所沢市中富にある神明社です。中富神明社は、元禄9年(1696)に川越藩主柳沢吉保が開発した三富新田に、毘沙門堂・多聞院が建立され、次いで多聞院境内に宝暦11年(1761)に三富新田の鎮守として神明社が勧請されたといいます。明治維新後の明治2年に多聞院から境内を分離し、村社に列格していました。明治40年から明治45年にかけて三富地区・富岡地区の諸社を合祀しています。

中富神明社
中富神明社の概要
社号 神明社
祭神 天照大御神
相殿 倉稲魂命、誉田別尊、大山祇命、木花開耶姫命、進雄命
境内社 天満宮、いも神様
祭日 -
住所 所沢市中富1507
備考 -



中富神明社の由緒

中富神明社は、元禄9年(1696)に川越藩主柳沢吉保が開発した三富新田に、毘沙門堂・多聞院が建立され、次いで多聞院境内に宝暦11年(1761)に三富新田の鎮守として神明社が勧請されたといいます。明治維新後の明治2年に多聞院から境内を分離し、村社に列格していました。明治40年から明治45年にかけて三富地区・富岡地区の諸社を合祀しています。

新編武蔵風土記稿による中富神明社の由緒

(中富村)
該当記載なし(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による中富神明社の由緒

神明社<所沢市中富一五〇七(中富字月ノ原)>
当地は、市の北東部に位置する畑作地帯である。一帯は元禄のころから開墾が始まり、元禄九年には川越城主柳沢吉保の祈願所として真言宗多聞院が開基された。当社は宝暦一一年に多聞院の境内に勧請されたと伝えられ、以後上富村・中富村・下富村三ヵ村の鎮守として厚く崇敬をうけていた。政府の神仏分離政策に伴い、明治二年に多聞院から境内を分離し、同年村社となった。同四〇年五月には、富岡村大字神米金の神明社を、翌年三月には、三芳村大字上富の八雲神社並びに同境内社天神社を合祀し、続いて同四五年三月にも、富岡村大字北岩岡の村社八幡神社同大字字八幡北の八幡神社同大字字北向の八幡神社・大字所沢の村社稲荷神社・大字神米金の村社稲荷神社・同境内社山神社をそれぞれ合祀している。
主祭神は天照大御神、合祀神は誉田別命・倉稲魂命・追雄命・木花開耶姫命・大山祇命・応神天皇である。
境内には、菅原道真公を祀る天神宮があり、寛政一二年の勧請といわれている。覆屋は、昭和五二年、天皇陛下御在位五十年記念事業の一環として造られたものである。また、昭和五九年には、境内に合祀となっていた先の八雲神社が、旧鎮座地である上富地区に返還された。(「埼玉の神社」より)

境内社甘藷乃神(いも神さま)について

境内社のいも神さまは、当地周辺にサツマイモの栽培・普及に尽力した南永井村の名主吉田弥右衛門の功績を称えるため、作り初めから255周年を記念して2006年にまつられたといいます。

いも神さまの由来
当地は武蔵野台地のまん中にあります。土が乾ききっているところで、夏の干ばつによる農作物の被害が特にひどいところでした。
南永井村の名主、吉田弥右衛門はそんなところでもよくできるというサツマイモの話を聞き、その導入と普及に努めました。
関東でのサツマイモの試作に最初に成功したのは、江戸の学者、青木昆陽先生で、享保二十年(一七三五)のことでした。弥右衛門の試作はそれから十六年後の寛延四年(一七五一)のことです。そのサツマイモは最初は飢饉に備えて作られましたが、すぐ農家の自家用の食料として積極的に作られるようになりました。それだけではありません。のちには江戸にたくさん現れた焼き芋屋用のいもとして、いいかえれば商品作物としても作られるようになり、貴重な現金収入源になりました。
おかげで苦しかった人々の暮らしが楽になりました。
神明社では、当地が「川越いも」の本場であることから、作り初め二五五周年を記念して、弥右衛門さんの功績を称えるとともに、関東のサツマイモ作りの元祖である昆陽先生と合わせて『甘藷乃神』としておまつりさせていただくことになりました。
やせた土地でもじょうぶに育ち、干ばつや病虫害などにも強いサツマイモは生命力の象徴でもあります。
いも神さまのご恩に感謝するとともに、サツマイモのたくましい生命力にあやかれるように健康・家内安全・子孫繁栄なども祈願していただければと思います。おまいりには社前の「なでいも」をなでて、神様の力を頂いてください。(神明社氏子崇敬会掲示より)


中富神明社の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)

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