宗清寺。浄泉寺を合併した松雲寺を合併、白翁大黒天
宗清寺の概要
曹洞宗寺院の宗清寺は、松雲山と号します。宗清寺は、天壽院殿宗清廣沢大禅師が開基となり、江戸愛宕山に慶長13年(1608)創建、元禄5年(1692)三田松坂町に移転、明治44年当地に移転、既に当地へ移転していた松雲寺と大正2年に合併したといいます。宗清寺には、鎌倉建長寺に祀られていた大黒天があり、白翁大黒天と称されて崇敬を集めていたといいます。松雲寺は、總寧寺二十二世智堂光照和尚が開山となり寛永6年に創建、寺地は能書家大橋龍慶の宅地跡で牛込原町にありましたが、明治40年牛込喜久井町の浄泉寺を合併して当地に移転していたといいます。
山号 | 松雲山 |
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院号 | - |
寺号 | 宗清寺 |
住所 | 中野区上高田1-27-6 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 白翁大黒天 |
宗清寺の縁起
宗清寺は、天壽院殿宗清廣沢大禅師が開基となり、江戸愛宕山に慶長13年(1608)創建、元禄5年(1692)三田松坂町に移転、明治44年当地に移転、既に当地へ移転していた松雲寺と大正2年に合併したといいます。宗清寺には、鎌倉建長寺に祀られていた大黒天があり、白翁大黒天と称されて崇敬を集めていたといいます。松雲寺は、總寧寺二十二世智堂光照和尚が開山となり寛永6年に創建、寺地は能書家大橋龍慶の宅地跡で牛込原町にありましたが、明治40年牛込喜久井町の浄泉寺を合併して当地に移転していたといいます。
「中野區史」による宗清寺の縁起
昭和通二丁目一四。松雲山と號する。本尊釋迦牟尼如来。現在の宗清寺は、松雲寺(もと牛込原町に在つた)浄泉寺(もと牛込喜久井町に在つた)宗清寺(もと芝三田松坂に在つた)三寺の合併したものである。山號は松雲寺から採つたもので、三寺の舊山號は宗清寺は天壽山・松雲寺は龍洞山といひ、浄泉寺は南谷山と言つた。合併の経緯を簡単に言へば、松雲寺が明治四十年五月、浄泉寺を合併して、當時中野町大字中野字大塚一八五九番地の現地に移轉し、尋で宗清寺が、明治四十四年十二月、同番地に寺籍を移轉し来り、大正二年に至つて合併したのである。されば大正五年七月刊行の東京府豊多摩郡誌には宗清・松雲兩寺の沿革が記載されてゐる。
遡って三寺の沿革を言へば、宗清寺は芝飯倉町瑠璃光寺の末であつて、元和三年五月、瑠璃光寺の二世麟曹の弟子暘谷慶岩の開創する所、浄泉寺は、幕府旗下の士水野下總守忠重(慶安四年五月朔日卒)の中興開基する所であある。その寺號は忠重の法諡を浄泉院殿相岳道圓居士といふのに基いてゐる。中興住持は二世直州嶺傳(寛文十二年四月六日寂)で、下總總寧寺二十二世智堂光紹(寛文十年八月十五日寂)を開山に仰いだ。松雲寺は雲室祟龍の開創にかかるが、その起立年代は明らかでない。(浄泉寺過去帳、〃寺院佛堂明細帳、宗清寺探訪録)
墓地二六九坪、寺内に浄泉寺中興開基水野忠重及び水野忠徳(明治元年七月七日歿、五十四歳)の墓がある。現在三十二世飯島幸之。
なほ當寺には白翁大黒天が安置されてゐる。この大黒天は文永元年、日蓮上人の刻む所で、後ち鎌倉建長寺の有に歸し、應永二十一年建長寺火災に罹つた際、一物をも餘さず焼失した。然るにこの大黒天は一圍の金色の光と共に西に飛び、其の頃江州伊香の黒田庄にあつた宗清寺の老樹の上に止まつた。住職龍意長老之を迎へて鄭重に祀つたと傳へられる。時の檀越 佐々木左衛門尉、黒田宗高大いに之を尊信し、供養怠らず、慶長十三年に至り、黒田長政、寺を江戸愛宕山の下に移して山號を天壽山と定め大黒天堂を建てて之を祀った。世人は之を白翁大黒天と呼び参詣も盛んであつた。元禄五年八月十日寺が三田松坂町に移ると共に大黒天堂も亦同所に移つた。宗清寺が「ナガテラ」と俗稱されたのは長政公の寺の略稱だと云はれる。(「中野區史」より)
合併した松雲寺について
龍洞山松雲寺 市谷長龍寺末
元和二年市谷南太町に起立、後寛永十二年川田久保に移る。勧請開山雲室宗龍和尚、元禄八年正月十日遷化。開基天外廓堂、慶長二年九月廿七日遷化。舊境内拝領地三百四十五坪、年貢地四百坪餘。(「牛込區史」より)
合併した浄泉寺について
南公山浄泉寺 國府臺總寧寺末
寛永六年起立、寺地は元大橋龍慶宅の由。開山總寧寺二十二世智堂光照和尚、寛文十年八月十五日示寂。二世中興直州嶺傳和尚、寛文十二年四月六日示寂。開基檀越玉寳院殿相兵道圓大居士、慶安四年五月朔日卒。舊境内除地六百五十一坪、済松寺領年貢地七百六十八坪。(「牛込區史」より)
宗清寺の周辺図