岩井堂。萬松山圓融寺の境外仏堂、旧秩父三十四ヶ所札所
岩井堂の概要
臨済宗建長寺派寺院の岩井堂は、萬松山圓融寺の境外仏堂で、秩父三十四ヶ所札所の第26番観音が安置されていた堂宇です。当地は、弘法大師が諸國遍路の際に霊験を感じて岩間に壇を設けて、三七日の秘法を修業したといいます。その後秩父太郎重弘が堂舎を再興、其子重能・其孫重忠代々の信仰を集め、佛國禅師が当地に霊験を感じて禅定したともいいます。なお、萬松山圓融寺の掲示では、岩井堂の建立時期を畠山重忠が二俣川の合戦で謀殺された元久2年(1205)としています。
山号 | 萬松山 |
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院号 | - |
寺号 | 圓融寺 |
住所 | 秩父市下影森 |
宗派 | 臨済宗建長寺派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
岩井堂の縁起
岩井堂は、秩父三十四ヶ所札所の第26番観音が安置されていた堂です。当地は、弘法大師が諸國遍路の際に霊験を感じて岩間に壇を設けて、三七日の秘法を修業したといいます。その後秩父太郎重弘が堂舎を再興、其子重能・其孫重忠代々の信仰を集め、l佛國禅師が当地に霊験を感じて禅定したともいいます。なお、萬松山圓融寺の掲示では、岩井堂の建立時期を畠山重忠が二俣川の合戦で謀殺された元久2年(1205)としています。
新編武蔵風土記稿による岩井堂の縁起
(影森村)廿六番觀音
秩父卅四番札所の内なり、堂は南向三間四面、石燈三百餘級を登り、山の中腹岩竇の側に結構せり、これを岩井堂と呼べり、補陀巖の額を掲ぐ、本尊正觀音木坐像長五寸七分、惠心僧都の作なり、左に波切不動の木坐像を置く、長三寸五分、弘法大師の作、右に正觀音・如意輪・地蔵の三體を安ぜり、抑此山の形勢を見るに、磴道高く虚空に逼るりて灌木森羅し、郡中にもその名高くきこへし靈蹤なり、南には武甲山隣り、西は瀧河山に對し、尚その奥院に至れば、東の方四萬部木戸原も目前につらなり、北は影森熊木の山谿いと勝れたる景色ありて、此所に愛宕社[末に出す]を勧請して、當山の鎮護神とせり、このあたりなる岩竇石壁には、諸佛の像の羅立せる其數をしらず、これ弘法大師以降、代々の名僧等、この山の清浄岑寂たるを欽羨して、登山の折から彫刻したまふとかや、此山のひらけざるまへ、弘法大師諸國遍路の時、こゝに至り必佛法流布の靈地たるべしと、岩間に壇を設け、三七日の秘法を修し玉ひし時、靈驗の奇説あり、その後惠心僧都彫刻の像を巖上に置しが、靈驗感應のあまり、里人を促して小堂を營、遷坐せしむとなり、それより星霜を經て、秩父別當武基が玄孫秩父太郎重弘、此觀音を信じ奉りて、堂舎再興の大檀那となり、又其子重能・其孫重忠代々の信仰地に異なりしと云、佛國禅師も又この地の閑寂たるを愛して、禅定に入りたまひしかば、本尊屡現じたまふと云傳ふ、今に大師の護摩壇石禅師の坐禅石など境内に存せり、詠歌に曰、尋入むすふ清水の岩井堂、心の垢をすゝがぬはなし
仁王門。石磴百九十餘級の上にあり
札堂。仁王門と黒門との間にあり
黒門。仁王門より石磴百餘級を登りてあり
鉤月庵。黒門の内にあり、山守りの居る所、
熊野社
愛宕社
金毘羅社
正觀音。銅鑄露坐長二尺五寸、この佛像及び前の三社共堂後の岩徑を攀ること六七十歩にして、往々盤岩の上に安ぜり、
坐禅石。佛國禅師の坐禅せし石にて、大さ六七尺四方、
護摩壇石。弘法大師修法せし所なりと云、
天狗ノ飛石。金毘羅社を此岩上に安ぜり(新編武蔵風土記稿より)
萬松山圓融寺境内の掲示による岩井堂の縁起
市指定史跡 札所二十六番
萬松山圓融寺(岩井堂)
この札所の本尊は恵心僧都の作といわれる八寸七分の立像聖観世音で現在は圓融寺本堂に安置されているが、かつては岩井堂に安置されていた。岩井堂は寺より南へ約一・五粁に元久二年(一二〇五年・鎌倉時代)に建立した。周囲は急峻な地形で岩壁におおわれ、その中腹に三間四面の方形造りに、勾欄をめぐらし唐様の細部をなした美しい堂です。
正面谷間に向けての舞台造りは、京都お清水寺の舞台を偲ばせます。
眼下百米谷川よりの霊霧、眼前の武甲の雄姿を収めたこの堂に身をおく時、まえに補陀楽の浄土をみるに似ます。
岩窟にはその昔、弘法大師三七日の秘法を修めたという護摩壇、仏国禅師の座禅石、秩父別当武基の玄孫、秩父太郎重弘、その子重能、重忠等の信仰も深かりし縁起もあります。
本寺の本堂には昭和三十三年七月市指定の文化財「勝軍地蔵立像」像高一二一糎、木造寄木造りで玉眼入り鎧の上に環甲の袈裟をつけた鎌倉時代の優秀作といわれる仏像が安置されています。
この他、県指定文化財烏山石燕の「景清の牢破」絵画額等もあります。
昭和40年1月25日 秩父市教育委員会指定(萬松山圓融寺境内の掲示より)
岩井堂の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿