妙雲山覚性寺。藤原秀郷草創、中武蔵七十二薬師
覚性寺の概要
真言宗智山派寺院の覚性寺は、妙雲山瑠璃光院と号します。覚性寺は、平将門を追討するために下向した藤原秀郷が、天慶3年(940)夢の告げにより東平熊野神社を勧請、薬師如来像を本尊として当寺を創建、勧修寺別當済高大僧都が開基したと伝えられます。明治7年当寺に於いて松山第二小学校の前身が開校しています。中武蔵七十二薬師68番です。
山号 | 妙雲山 |
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院号 | 瑠璃光院 |
寺号 | 覚性寺 |
本尊 | 阿弥陀如来像 |
住所 | 東松山市東平438 |
宗派 | 真言宗智山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
覚性寺の縁起
覚性寺は、平将門を追討するために下向した藤原秀郷が、天慶3年(940)夢の告げにより東平熊野神社を勧請、薬師如来像を本尊として当寺を創建、勧修寺別當済高大僧都が開基したと伝えられます。豊臣秀吉の小田原攻めに際し焼失したものの、金剛院住職が慶長8年(1603)に再建、覚宥上人(享保12年1727年寂)が中興したといいます。江戸期には、東平熊野神社をはじめ、東平地内に鎮座していた稲荷社・諏訪社・神明社を擁していました。明治7年当寺に於いて松山第二小学校の前身が開校しています。
境内石碑による覚性寺の縁起
覚性寺縁起
当山は、妙雲山瑠璃光院覚性寺と称し天慶三庚子年下野守藤原秀郷の草創、勧修寺別當済高大僧都の開基なり。
当山に伝わる「蘭若叢録」によると当時、東国の地に反乱をおこした平将門征伐の勅命を受けた秀郷が東国に赴く途中、夢に現れた翁のお告げに従い、紫雲出る松樹の下に熊野大権現(現在の熊野神社)を勧請しその霊徳により、将門を討ち取った。その後、もとの松樹より栴檀林の如く薫香たちこめ、薬師如来の尊容一体を得てこれを本尊とし、伽藍を建立した。故に、瑠璃光院と号し、瑞雲有るによって妙雲山と名づく、又のちに秀郷の法名を以て覚性寺とす。
その後、星霜六百七十有余年を経て松山城落城の砌、近郷の在家、兵火の為に塵芥に帰す、当山もその難遁れがたく一切伽藍ことごとく焼失するが唯一、薬師如来一体は難を逃れ今に伝わる。以来、当山はその薬師如来の霊験により多くの信仰をあつめたという。又、江戸文化年間には俳人一茶が旅の途中にしばし雨をしのいだとの記録もある。さらに明治の初めには、寺子屋がおかれ地域の子弟教育の場となり、現在の松山第二小学校の前身となった。
現在、真言宗智山派の寺院として弘法大師の教えと共に古来の法燈を今に伝えている。(境内石碑より)
新編武蔵風土記稿による覚性寺の縁起
(東平村)
覺性寺
新義眞言宗、横見郡今泉村金剛院末、妙雲山瑠璃光院と號す、本尊彌陀を安ず、
薬師堂(新編武蔵風土記稿より)
覚性寺の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」